東京地方裁判所 昭和55年(ワ)3467号 判決 1987年3月27日
原告
福田緑
同
中田みどり
同
沖本美紀子
同
和田廣治
同
飯高正勝
同
加藤たき
同
久保田晶子
同
佐々木恵司
同
テイム・ベーケン
同
東條秀隆
同
柳原宏行
同
渡辺文学
同
浅野望
同
浅野響
右浅野望、浅野響両名法定代理人親権者父
浅野晉
右同母
浅野陽子
右原告ら訴訟代理人弁護士
伊佐山芳郎
同
浅野晋
同
秋山幹夫
同
茨木茂
同
榎本武光
同
黒川達雄
同
佐々木恭三
同
田中重仁
同
中西勝夫
同
穂積忠夫
同
美里直毅
同
山口紀洋
同
山本政明
同
中村誠一
同
吉岡睦子
同
榊原冨士子
同
大岸聰
被告
日本国有鉄道
右代表者総裁
杉浦喬也
右訴訟代理人弁護士
西迪雄
右訴訟復代理人弁護士
富田美栄子
右指定代理人
本間達三
外四名
被告
国
右代表者法務大臣
遠藤要
右指定代理人
守屋節司
外六名
被告
日本たばこ産業株式会社
右代表者代表取締役
長岡實
右指定代理人
竹本啓二
外七名
被告国及び同日本たばこ産業株式会社指定代理人
星野雅紀
同
河村吉晃
同
勝又清
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 原告らに対し、被告日本国有鉄道は、同被告の管理に係る鉄道について、各列車の客車のうち半数以上を禁煙車とせよ。
2 被告らは、各自、原告和田廣治に対し金五〇〇万円、同飯高正勝に対し金三〇〇万円、同福田緑、同中田みどり、同沖本美紀子、同加藤たき、同久保田晶子、同佐々木恵司、同テイム・ベーケン、同東條秀隆、同柳原宏行、同渡辺文学、同浅野望及び同浅野響に対し各金一〇万円の支払をせよ。
3 訴訟費用は被告らの負担とする。
4 第2項中原告和田廣治、同福田緑、同中田みどり、同沖本美紀子の各請求につき仮執行の宣言
二 被告日本国有鉄道の答弁
1 原告らの被告日本国有鉄道に対する請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は、原告らの負担とする。
3 仮執行免脱の宣言
三 被告国の答弁
1 原告らの被告国に対する請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
四 被告日本たばこ産業株式会社の答弁
1 原告らの被告日本たばこ産業株式会社に対する請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告ら
原告らは、被告日本国有鉄道の旅客列車を利用する者である。
(二) 被告日本国有鉄道
被告日本国有鉄道(以下「被告国鉄」という。)は、日本国有鉄道法に基づき、国が国有鉄道事業特別会計をもつて経営していた鉄道事業その他一切の事業を経営し、公共の福祉を増進することを目的として設立された公法上の法人であつて、鉄道事業をその主たる事業とするものである。
(三) 被告国
被告国は、厚生大臣に公衆衛生の向上を図る任務を運輸大臣に被告国鉄の事業を監督する任務をそれぞれ担当させ、大蔵大臣に訴外日本専売公社(以下「専売公社」という。)の専売事業を監督する任務を担当させていた。
(四) 被告日本たばこ産業株式会社専売公社は、日本専売公社法(日本たばこ産業株式会社法附則第二〇条第一号による廃止前のもの。以下同じ。)に基づき、専売事業を健全かつ能率的に実施することを目的として設立された公法上の法人であり、たばこ専売事業を主たる事業としていたが、日本たばこ産業株式会社法附則第一二条第一項により解散し、被告日本たばこ産業株式会社(以下「被告日本たばこ」という。)は、同項により専売公社の一切の権利義務を承継した。
2 喫煙の害及びこれに関する規制
(一) 喫煙及び受動喫煙の有害性
(1)(イ) たばこの煙は、喫煙に際して、たばこ自体を通じて口腔に移行する煙(以下「主流煙」という。)と、たばこの燃焼部位から空中に立ち昇る煙(以下「副流煙」という。)から成つている。
自らの意思によつて積極的に喫煙(以下このような喫煙を「能動喫煙」という。)をする者は、もつぱら主流煙を吸入するのに対し、能動喫煙をする者の周囲にいる者は、能動喫煙によつて吐き出される呼気中の煙と副流煙とを吸入することとなる(以下能動喫煙をする者の周囲の者がそのたばこの煙を受動的に吸入することを「受動喫煙」という。)。
(ロ) たばこの煙には、一酸化炭素と浮遊粒子状物質が高い濃度で含まれているため、列車内等の閉鎖的な空間において喫煙が行われると、空気中におけるその濃度が急激に上昇し、僅かの喫煙によつても建築物環境衛生管理基準値を大幅に上回る数値に到達する。
(ハ) 能動喫煙は、肺癌、心筋梗塞等の虚血性心臓疾患、慢性気管支炎及び肺気腫等の疾患を惹起する原因となり、喫煙者の死亡率は、どの世代でも非喫煙者のそれを上回つている。また、妊婦の能動喫煙は、胎児の発育不良並びに自然流産、早産の原因となる。
(2)(イ) 非喫煙者は、喫煙者の周囲においては、自己の意思に拘らず受動喫煙を余儀なくされており、公共の輸送機関を利用する場合においても、一部を除き喫煙が許されているので、同様の受動喫煙の状態におかれることになる。ことに、被告国鉄の運行する中長距離列車の車内においては、客車の構造上車窓の自由な開閉ができないため、たばこの煙によつて車内の空気がどれほど汚染されても、その空気を呼吸せざるを得ない。
(ロ) 副流煙は、主流煙の三倍から一〇〇倍以上もの発癌性物質を含み、主流煙よりもはるかに有害である。非喫煙者は、これを意思に反して吸わされ、これによつて身体に様々の影響を受けることとなる。
そして、受動喫煙が身体に与える影響には、急性のものと慢性のものとがある。
急性の影響は、煙による眼及び鼻の刺激、頭痛、咳、喉の痛み、しやがれ声、悪心、めまい等の自覚症状が生ずることである。そして、たばこの煙には、一酸化炭素が含有されているので、能動喫煙者と非喫煙者が同室すると、非喫煙者は受動喫煙によつて一酸化炭素を吸入することとなる。すると、その体内において、血液中のヘモグロビンと吸入した一酸化炭素とが結合して一酸化炭素ヘモグロビンを生じ、その血液中の濃度が上昇するにつれて心臓の機能に影響を及ぼし、虚血性心臓疾患を悪化させる危険を生ずると共に、脳中枢神経にも悪影響を与える。そのほか、心拍数の増加、呼気中の一酸化炭素の増加等の影響がある。
慢性の影響は、家庭内や職場に喫煙者がいる場合等に表れる。常習的喫煙者のいる家庭の子弟は、家庭内における受動喫煙により、呼吸器系疾患に罹患する確率が高い。また、受動喫煙によつて肺がんに患る可能性のあることが、ハツカネズミを利用した実験により確かめられている。
(二) 世界保健機構の勧告及び諸外国における喫煙に対する規制の実状
(1) 世界保健機構の「喫煙とその健康に及ぼす影響に関する専門委員会」は、昭和四九年一二月喫煙は、肺癌、慢性気管支炎、肺気腫、心筋梗塞、閉塞性末梢血管障害等の主因であり、舌、喉頭、食道、すい臓及び膀胱の各癌並びに流産、死産、新生児死亡、胃及び十二指腸の潰瘍の要因となつているとしたうえで、各国政府に対し次のような施策を実施するように勧告した。
(イ) 各国政府は、若年者ができる限り喫煙の慣習を身につけないようにし、可能な限り多くの喫煙者が禁煙するよう奨励しあるいは支援するとともに、禁煙することができない者については、煙の中のタール、ニコチン及び一酸化炭素が可能な限り少ないたばこを吸うように努力させるため、喫煙の抑制と予防のための特別計画に協力し、あるいはこれを監督する機関を設置すること
(ロ) 各国政府は、喫煙の有害性について健康教育を実施すること
(ハ) 各国政府は次のような内容の法令の制定に努力すること
(A) たばこの宣伝及び広告を制限しもしくは禁止すること
(B) たばこの箱又はその広告に当該たばこの喫煙によつて発生するタール、一酸化炭素及びニコチンの量並びに喫煙が有害であることを表示すること
(C) たばこの消費量を減らすために、たばこに賦課する税金を一定期間毎に増加させること
(D) 青少年に対してたばこを販売することを禁止すること
(E) 青少年が利用可能なたばこの自動販売機の設置を禁止すること
(ニ) 各国政府は、禁煙しようとする者を支援するため、禁煙指導者を援助するとともに禁煙のための専門病院を設置すること
(ホ) 各国政府は、非喫煙者を保護するために次の施策を実施すること
(A) 病院等の医療機関においては、指定された喫煙場所以外は禁煙とすること
(B) 職場においては、非喫煙者の同意を得ることなしに喫煙することを禁止すること
(C) 公共交通機関及び公衆の集まる場所であつて禁煙とされていない場所については、禁煙の場所を設けかつこれを拡大すること
(D) 禁煙とされている場所については、その旨を明示し、周知徹底させること
(E) 子供が喫煙者に接近しないようにするために特別の配慮をすること
(2) フランス、イタリア、イギリス、西ドイツ、スウェーデン、ノルウェー、ソビエト連邦、ブルガリア、アメリカ合衆国の諸州及び諸市等の諸外国においては、世界保健機構の「喫煙とその健康に及ぼす影響に関する専門委員会」の右勧告前からもしくは同勧告を受けて、公共交通機関における喫煙を制限する等の種々の喫煙抑制のための処置が取られている。
(三) 我が国における喫煙の規制等
(1) 我が国においては、喫煙の規制を直接の目的とする法規は未成年者喫煙禁止法の他には存しない。なお、消防法及び労働安全衛生法等は、劇場及びデパート等における喫煙を規制しているが、これは火災防止の観点からする規制である。
(2) しかし、最近においては、喫煙による空気の汚染を防止し、受動的喫煙者をその害から保護するために、喫煙に規制を加える動きが急速に広まつている。その状況は、次のとおりである。
(イ) 厚生省医務局国立病院課長及び同国立療養所課長は、昭和五三年四月二八日全国の国立病院及び国立療養所に対し、喫煙場所の制限を求めることを内容とする通達を発し、それ以来多数の病院において、喫煙の場所を限定する措置がとられた。
(ロ) 東京都三鷹市役所は、昭和四〇年から庁舎内を原則的に禁煙としている。
(ハ) 国際線の旅客機には従前から禁煙席が設けられていたところ、昭和五三年六月から、日本航空株式会社、全日本空輸株式会社、東亜国内航空株式会社の運航する国内線の旅客機にも総座席の二割の禁煙席が設けられた。
(ニ) 被告国鉄は、首都圏及び大阪の国電区間と近距離の一定の区間とを原則的に禁煙としているほか、昭和五一年八月二〇日から新幹線こだま号の一六号車一両を乗客に対して車内の禁煙について協力を求める趣旨の禁煙車輛とし、首都圏の各駅においては朝夕のラッシュ時間帯に「禁煙タイム」を設定する等して喫煙を規制しようとする動きをみせている。
(3) 原告らは、いずれも非喫煙者であり、たばこの煙の刺激、臭気等を嫌つている。
公共交通機関及びその他の公共の場所は、あらゆる人々が利用することが予定されているから、公共の場所においては、一部の人々が肯定することであつても、他の人々の迷惑となることを行うことは禁止されるべきである。
被告国鉄が運行する旅客列車は、公共の乗物であり、その乗客中には、乳幼児、児童、妊産婦、呼吸器もしくは循環器系統の疾患を有する者、アレルギー患者等のたばこの煙に汚染された空気に曝露されることにより健康状態が悪化する可能性のある者並びにたばこの煙の刺激及び臭気等を嫌う非喫煙者が多数含まれている。
喫煙者は、喫煙の自由を有するが、それは無制限なものではなく、右のようなたばこの煙を嫌う人々も利用する公共交通機関その他の公共の場所においては、喫煙の自由は制約されるべきである。
3 禁煙車輛設置の請求の根拠及び内容
(一) 人格権の根拠
(1) 個人の生命及び身体の安全、健康の保持、精神の平穏並びに人間たるにふさわしい生活の享受に関する利益は、個人の人格の尊厳にかかわる本質的なものであり、その総体が人格権として保障される。
このような人格権を明定した規定はないが、すべて国民が個人として尊重され、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が公共の福祉に反しない限り最大限の尊重されるべき旨を定める憲法第一三条並びに国民が健康で文化的な生活を営む権利を有する旨を定める同第二五条第一項によつて、人格権が憲法上の人権として国民に対して保障されているものというべきである。
(2) 憲法上の人権の保障に関する規定が国民相互間においても適用されるのかどうかについては、その直接的な適用を否定する間接適用説もあるが、仮に同説によつたとしても、右の憲法上の保障が、私法上の一般条項を通じて人格権の根拠として作用するものであり、ことに被告国鉄は公法人であるから、原告らと被告国鉄の間では、憲法の右規定が直接に適用され、人格権についてもこれらの規定が直接の根拠規定となるものである。なお、民法第七一〇条は身体、自由、名誉という人格的な利益が権利であることを前提としているものである。
(二) 人格権によつて保障される健康の内容
このように、人格権として国民の健康の保持に関する利益が保障されているが、その「健康」の内容については、従前は、ともすれば、病気でないことが健康であり、しかも、医師による治療を要するもののみが病気であると考えられてきた。
しかしながら、世界保健機構は、昭和二一年に定めた世界保健憲章において、健康とは、単に疾病や虚弱ではないということではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることをいい、到達しうる限り最高度の健康水準を享受することがすべての人間の基本的権利の一つである旨を宣言し、「国際人権規約(昭和四一年一二月一六日第二一回国連総会採択)」中の「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和五四年条約第六号)」第一二条第一項は、この規約の締約国は、すべての者が到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利を認める旨を定め、健康の享受を権利であると宣言している。
そして、我国は、この規約の締約国であるから、同規約は、国内法としての効力を有する。
(三) 受動喫煙による人格権の侵害
受動喫煙においては、たばこの煙による悪臭及び刺激により、人によつては、不快感を覚えるに過ぎない場合もあるが、このような場合であつても、人格権としての健康の内容を前述のように解する限り健康についての被害があり、かつ、快適な生活についての利益が侵害されているのであつて、人格権が侵害されているものというべきである。
さらに、受動喫煙には、前述のように、呼吸器や循環器等への害があるが、それのみならず、受動喫煙によつて、呼吸器や循環器等の疾病に罹患し、もしくは既に罹患した疾病が悪化するのではないかとの不安を惹起すること自体が人格権への侵害である。
したがつて、自己の意思に反してたばこの煙にさらされ、受動喫煙を強いられること自体が人格権に対する侵害である。
(四) 人格権に基づく差止め及び妨害予防請求権
(1) 権利侵害行為がなされ、またはなされる虞がある場合に、当該行為の差止めまたは予防を求めるには、加害者側と被害者側との利益衡量により、当該行為についての損害賠償を求めることができる場合と比較してより厳格な要件を必要とするとの見解がある。
しかしながら、権利侵害行為は、一定の限度を超えることによつて初めて違法と評価されるものではなく、違法性阻却事由がない限り直ちに違法と評価されるべきであり、また、差止めにも様々の段階があり、被害の内容によつては損害賠償よりも差止めの方が認め易い場合もあるから、権利侵害行為については、格別の要件を考慮することなく、その差止めや予防が認められるべきである。
(2) 鉄道運輸規程(昭和一七年鉄道省令第三号)第二一条第二号及び第四号は、旅客が保険衛生上有害な行為及び他人に危害を及ぼすべき虞のある行為をすることを禁止しているが、たばこの煙には前述した害があるのであるから、被告国鉄の運行する列車内における喫煙は、本来は、右規程によつて禁止されているものである。
(3) 被告国鉄は、高度の公共性を有する交通機関であり、国民は、被告国鉄の運行する列車に乗車することが、その日常生活において不可欠であり、乗客の中には、乳幼児、心臓血管系疾患の患者、喘息等の呼吸器系疾患の患者、アレルギー患者等のたばこの煙を禁忌とする者も含まれているから、車内を禁煙とする必要性が高い。
原告らが禁煙措置が講じられていない列車に乗車すれば、たばこの煙による被害を受け、健康で快適な生活環境を享受する人格権上の利益が侵害されるおそれがある。
(4) 被告国鉄は、公の営造物である列車等の施設の管理権の主体として、これを管理する権限を有するとともに、営造物の利用者である乗客に対し、営造物管理規則を定める等して営造物管理のために必要な命令を発する権限があり、鉄道営業法第三四条第一号によれば、右管理権に基づいて「吸煙禁止」の車輛、即ち禁煙車輛を設け、これを乗客に遵守させることができるのである。
列車内の空気がたばこの煙により汚染する直接の原因は乗客の喫煙であるが、被告国鉄は、たばこの煙により乗客の健康が害されることを防止し、その人格権を守るために、営造物管理権を行使して、その管理する列車に禁煙車輛を設置する義務がある。
そして、右営造物管理権は被告国鉄に専属するものであつて、第三者が代替して行使することができないものであるから、原告らの被告国鉄に対する禁煙車輛の設置を求める請求は、非代替的な作為を求める請求である。
(5) 差止請求における立証責任の分担は、原告らと被告国鉄との社会的な力の差異、立証事項がいずれの当事者の支配領域に属するか等を勘案した上で公平に決定する必要がある。本件においては、原告らとしては、自ら過去に利用した列車及びこれから利用する列車の客車内における受動喫煙が、被害を生じさせる蓋然性があることを、公衆衛生上の観点から主張、立証すれば足り、右の立証がなされたときは、被告国鉄において、右の蓋然性が存するにも拘らず、客車内の受動喫煙によつては公衆衛生上看過し得ない被害が発生しないことの立証を尽くさない限り、原告らの作為請求が認容されるべきである。
(五) 受忍限度論について
(1) 公害等の差止めの請求においては、被害者の権利または利益が侵害されていても、当該侵害行為に社会的有益性もしくは公共性があるときは、当該行為の有用性及び公益性と当該行為による利益侵害を比較衡量し、前者が優越するときは差止めを認めないものとするいわゆる受忍限度論が用いられることがある。
しかしながら、人の健康は、侵害行為から絶対的に保護される必要があり、受忍限度論による利益衡量には親しまないものというべきであるから、たばこの煙による健康被害が問題とされている本件においては、受忍限度論による利益衡量をする余地がない。
(2) 仮に、受忍限度論を適用するとしても、原告らが侵害されている利益は、身体の健康という極めて重大なものであるのに対し、列車内における喫煙は、鉄道運輸規程第二一条第二号及び第四号によつて禁止されている無価値な行為であり、禁煙車輛を設置しないことについての社会的有用性及び公共性は皆無である。
すなわち、被告国鉄が禁煙車輛を設置するために要する負担は、禁煙の表示を設けたり、禁煙についての車内放送をする程度のもので足り、禁煙車輛を設けることによつて、かえつて被告国鉄には、喫煙に伴う清掃及び防災上の負担が軽減される利益すら生じるものであり、他方全車輛において喫煙を禁止するものではないから、愛煙家に格別の不利益を強いるものではない。
このように、仮に受忍限度論が本件の禁煙車輛の設置を求める請求について適用されても、禁煙車輛を設置することによる利益の方が、これを設置しないことによる利益を上回ることは明らかであるから、受忍限度論を適用することが原告らの禁煙車輛の設置を求める請求の妨げとはならない。
(六) 原告和田廣治の継続的運送契約に基づく請求
(1) 原告和田廣治(以下「原告和田」という。)は、通勤のために、被告国鉄の北陸本線の富山駅から小杉駅までの間を、定期乗車券を購入して乗車しており、原告和田と被告国鉄との間においては、原告和田が右区間の列車に乗車することについての継続的な運送契約関係が存在する。
(2) 原告和田は、通勤のために右区間を乗車した際に、車内のたばこの煙によつて被害を受けており、現状のまま更に右区間を乗車すれば、同様の被害を受ける蓋然性がある。
(3) 被告国鉄が、右のように、たばこの煙による被害が発生する蓋然性のある列車を北陸本線の富山駅から小杉駅までの間において運行することは、原告和田と被告国鉄との間の右の継続的運送契約関係に基づく債務につき不完全履行に該当する。
(4) 右運送契約に基づく被告国鉄の債務は、今後においては、右区間において運行する列車に禁煙車輛を設置することによつて履行することができるから、原告和田は、被告国鉄に対し、右契約に基づく履行の請求として、右区間を運行する列車に禁煙車輛を設置することを求める。
(七) 禁煙車輛を設置すべき線区
原告らは、必要に応じて被告国鉄が運行するあらゆる列車を利用する意思があり、その全線区を利用する蓋然性があるが、いつ、どこへ行くために、どの列車を利用するかは、旅行をする時点にならなければ分からない。そして、当該旅行の時点になつて現実に利用する線区についての禁煙車の設置を請求したのでは間に合わないから、旅行についての抽象的な可能性がある国鉄の全線区について直ちにその措置をすることを求める必要がある。もつとも、原告らが被告国鉄の全線区をくまなく利用する可能性は低いが、列車内における喫煙は、鉄道運輸規程第二一条第二号及び第四号により禁止されている無価値なものであるから、その可能性の低いことは、国鉄の全線区についてその措置を求めることの妨げとはならない。
また、原告和田は、通勤のために、北陸本線の富山駅、小杉駅間を常時利用する蓋然性がある。
(八) 禁煙車輛の意義及びその割合
被告国鉄は、営造物である列車を管理する権限を有しているのであり、その管理行為として、特定の車輛につき喫煙を禁止する措置をとることができる。
ところで、我が国の喫煙者の割合は、全人口の三〇パーセント程度であり、成人の喫煙者の割合は、四三パーセント以下であり、列車内における実際の喫煙率は、全乗客の三〇パーセント未満であるから、少なくとも各列車の車輛の過半数を禁煙車輛としなければ、非喫煙者たる原告らが、座席が確保できなかつたり、混雑を強いられる結果となりかねない。
他方右の喫煙者の割合からすれば、半数の車輛が禁煙車輛になつたとしても、喫煙者に不便を強いることにはならず、被告国鉄の不利益ともならない。
そこで、被告国鉄は、その管理する列車のうち過半数を禁煙車輛とすべきである。
(九) 口頭弁論終結時における禁煙車輛設置の必要性
被告国鉄は、本件訴訟提起後、漸次禁煙車輛を設置するようになつたが、禁煙車輛が設置されている列車でもその割合は一編成の列車中の一ないし二輛にすぎず、また、特定の時間帯または特定の区間のみを禁煙車輛とする例もあるが、そのような規制がなされている場合においては当該区間及び時間帯を除けば何等の禁煙措置も講じられておらず、さらに、何等の禁煙措置の講じられていない列車または線区も残されており、被告国鉄による列車の禁煙の措置は未だ十分なものということができないから、原告らは、なお、被告国鉄に対して、禁煙車輛の設置を求める必要がある。
4 被告国鉄の損害賠償責任
(一) 債務不履行責任
(1) 憲法において、国民に健康で文化的な最低限度の生活を保証し(第二五条第一項)、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が国政上最大限に尊重されるべき旨(第一三条)並びに国がすべての生活部面において積極的に公衆衛生の向上及び増進に努めるべき旨(第二五条第二項)を定められていることと日本国有鉄道法によれば、被告国鉄は、公共の福祉を増進することを目的として設立された公法上の法人であることからすると、被告国鉄は、国とともに公衆衛生の向上及び増進に努めるべき責務を負つているものである。
(2) 被告国鉄は、公共運送機関として、旅客に対し、運送契約に基づいて、旅客を快適に輸送すべき条理上の義務(以下「快適輸送義務」という。)を負つている。
たばこの煙は非喫煙者にとつては甚だしく不快なものであるが、被告国鉄の運行していた列車の客車内は外界から閉鎖された環境にあるため、非喫煙者が同乗の喫煙者のたばこの煙を避けることは不可能である。したがつて、被告国鉄は、右快適輸送義務を尽くすためには、喫煙者が非喫煙者にたばこの煙の影響が及ぶ場所において喫煙をしないようにするための適切な措置を講じる義務があつた。
なお、被告国鉄の旅客輸送基準規程(昭和四一年一二月一〇日旅達第一六号)の前文は、輸送管理規程(昭和三九年四月総裁達第一七六号)第二六条第一号の規程に基づき輸送需要の動向を把握し、これに対応する輸送計画を樹立し、安全、正確、迅速、快適かつ公平な輸送サービスを提供するとともに、旅客輸送の安定的伸張と、経営能率の向上をはかることを目的として同規程を定める旨をうたつており、このことからしても、被告国鉄が快適輸送義務を負つていたことは明らかである。
(3) 被告国鉄は、公共運送機関として、旅客に対し、運送契約に基づいて、単に旅客を目的地に運送するだけではなく、同契約に付随する安全配慮義務として、旅客の生命身体に危害が及ぶことのないように安全に輸送すべき義務を負つている。
加えて、鉄道運輸規程(昭和一七年鉄道省令第三号)第二一条第二号及び第四号は、旅客が保険衛生上有害な行為及び他人に危害を及ぼすべき虞のある行為をすることを禁止しているが、被告国鉄は、同条の趣旨によりある旅客による保険衛生上有害な行為又は他人に危害を及ぼすべき虞のある行為により他の旅客が被害を受けることを防止する義務があるものというべきである。
ところで、たばこの煙が喫煙者の周囲にいる者に対して健康上の被害を及ぼすものであることは前述したとおりである。したがつて、被告国鉄は、禁煙車輛を設置する等の措置を講ずることにより、列車内、駅の待合室及びプラットホーム等の旅客の来集する場所における喫煙を禁止するとともに、これらの場所に喫煙車及び喫煙室等を設置し、このような場所においてのみ喫煙を許容するようにして旅客の身体にたばこの煙による健康被害が生じないように配慮すべき旅客運送契約上の安全配慮義務があつた。
(4) 原告らは、被告国鉄の運行する列車を利用した際後記第7項記載の各被害を被つたが、これは、被告国鉄が右の各義務を履行し、適切な数量の禁煙車輛を列車に設置していれば生じなかつたものであるから、被告国鉄は、商法第五九〇条第一項により、原告らに対し、その損害を賠償する義務がある。
(二) 国家賠償責任
(1) 日本国有鉄道法第六三条は、特段の定めがない限り、法令の適用について、被告国鉄を国と、被告国鉄の総裁を主務大臣とみなす旨を定めており、被告国鉄の車輛等の施設は、国家賠償法第二条にいう公の営造物に該当するものである。
(2) 被告国鉄は、公共交通機関であるところ、乗客の中には、乳幼児、心臓血管系疾患の患者、喘息等の呼吸器系疾患の患者、アレルギー患者及び非喫煙者等のたばこの煙によつて、健康上の被害または不快感を受ける者が含まれており、しかも、喫煙は鉄道運輸規程第二一条第二号及び第四号によつて禁止されているのであるから、列車内が閉鎖的な環境であることを考慮すれば、これらの者が他の乗客の喫煙によるたばこの煙による被害を受けないようにするために、公の営造物の管理主体として、各列車に十分な数量の禁煙車輛を設置する等の措置を講じるべきであつた。
(3) 公の営造物については、その利用状況等に応じて具体的に予想される危険の発生を未然に防止するための設備が講じられていなければ、その設置及び管理に瑕疵があるものというべきである。しかるに、被告国鉄は、列車に十分な数量の禁煙車輛を設置しなかつたばかりでなく、かえつて、灰皿等の喫煙を助長する設備を設置していたのであつて、これによれば、被告国鉄の営造物の設置及び管理に瑕疵があつたものというべきである。
(4) 原告らの前述の各被害は、被告国鉄が公の営造物たる列車の設置及び管理を適切に行い、適切な数量の禁煙車輛を列車に設置していれば生じなかつたものであるから、被告国鉄は、国家賠償法第二条第一項により、原告らに対し、その損害を賠償する義務がある。
(三) 不法行為責任
(1) 被告国鉄は、昭和五一年八月から東海道新幹線こだま号に禁煙車輛を設置したが、次のとおり、それより前から、被告国鉄が運行する列車の客車内がたばこの煙によつて汚染されていたこと及び乗客中の非喫煙者がそのような列車に乗車することによつて前述のような健康上の被害を受けることを認識していた。
(イ) 厚生省は、昭和三九年二月六日都道府県知事等に対し、公衆衛生局長通知により、喫煙が人の健康に有害であり、国民に対してその点に関する啓蒙措置を講じる必要がある旨を通知しており、被告国鉄は、この当時から喫煙の有害性を認識していた。
(ロ) 世界保健機構の専門委員会は、昭和四五年及び翌四六年に開催された総会において、喫煙が人の健康に有害であることを指摘するとともに、公共交通機関等の公共の場所において禁煙の措置を講じるべき旨を各国政府に対して勧告し、昭和五〇年五月に開催された総会において、「喫煙と健康に及ぼす影響」と題する報告書により、受動喫煙が人の健康に有害であることを指摘し、非喫煙者の健康を保護するために、公共交通機関等に禁煙の場所を設置し、かつ、これを拡大すべき旨を各国政府に対して勧告し、昭和五四年には、「喫煙流行の制圧」と題する報告書により、受動喫煙の有害性を詳述し、公共の場所において喫煙規制措置を講じるべき旨を各国政府に対して勧告した。そして、我が国の厚生省は、世界保健機構がした右各勧告のうち、昭和四五年、昭和四六年及び昭和五〇年になされたものを昭和五一年に翻訳し、「たばこの害とたたかう世界」との題名で出版しており、被告国鉄はその内容を容易に知り、または、容易に知ることができた。また、世界保健機構がした右各勧告のうち昭和五四年になされたものについては、昭和五五年一月に、我が国において、翻訳が出版されており、これにより被告国鉄はその内容を知り、または、容易に知ることが出来た。
(2) 建築物における衛生的環境の確保に関する法律(昭和四五年法律第二〇号)第二条、同法施行令第一条は、同法が規制対象とする特定建築物の種類を定め、同法第四条第一項及び第二項は、特定建物の維持管理について「建築物環境衛生基準」を政令で定め、特定建物の所有者、占有者及び維持管理権者が同基準を遵守すべき旨を、同条第三項は、特定建築物以外の建物で多数の者が使用または利用するものの所有者、占有者及び維持管理権者が同基準を遵守するように努めるべき旨を定め、同法施行令第二条第一号イは、同基準として、中央管理方式の空気調和設備を有する居室における空気中の浮遊粉塵量を一立方メートル当り〇・一五ミリグラム以下にすべき旨を定めている。そして、「建築物環境衛生基準」は、被告国鉄の運行する列車の客車について直接に適用されるものではないが、同基準は、人の健康に害が及ばないようにするために定められたものであるから、被告国鉄は、その運行する列車の客車内の環境保持上同基準に依拠すべきであるところ、次のとおり、被告国鉄が運行していた列車の客車内の空気がたばこの煙に含まれる粉塵によつて汚染されていることを知つていた。
(イ) 被告国鉄の鉄道労働科学研究所は、昭和四一年一〇月から同年一二月にかけて被告国鉄が運行する新幹線及び在来線の特急列車等の客車内の粉塵量を測定したところ、最高値が一立方メートル当り一・一七ミリグラムで、ほとんどの事例について一立方メートル当り〇・一五ミリグラムを超えていたので、粉塵量の減少を図ることが望ましい旨を指摘するとともに、右の粉塵はたばこによるものであり、喫煙者が増加すると粉塵量も増加する旨を明らかにした。
(ロ) 名古屋大学教授中原信生は、昭和五四年一一月から昭和五五年六月にかけて新幹線内の粉塵量を調査した結果、こだま号の禁煙車では、常に一立方メートル当り〇・〇八ミリグラム以下であつたのに対し、禁煙車ではない一般の車輛では、乗車率が六割以上のときは、九割以上の事例について一立方メートル当り〇・一五ミリグラムを上回つたことが明らかになつた。
(3) 昭和五〇年五月に開催された世界保健機構総会において、非喫煙者の健康を保護するために、公共交通機関等において禁煙措置を講じるべき旨の決議がなされたこと、及びそれ以前から、乗客から被告国鉄に対し、禁煙車輛を設置すべき旨の要望が寄せられていたことを理由として、被告国鉄は、昭和五一年八月から東海道新幹線こだま号についてのみ禁煙車輛を設置した。
(4) したがつて、被告国鉄は、非喫煙者の旅客がたばこの煙による被害を受けないようにするために、遅くとも、昭和五八年六月末までに被告国鉄が運行する全列車について禁煙車輛を設置すべき注意義務があつたのに、これを怠り、一部の列車にのみ禁煙車輛を設け、全車輛にこれを設置することをしなかつた。このため、原告らは、昭和五二年七月から昭和五八年七月までの間に被告国鉄の列車に乗車した際、禁煙車輛のない列車に乗車せざるを得なくなり、その車内においてたばこの煙に曝露され、前述の各被害を受けた。
(5) よつて、被告国鉄は、民法第七〇九条に基づいて原告らに対し、前述の各被害について、その損害を賠償する義務がある。
5 被告日本たばこの責任
(一) 専売公社の責任
(1)(イ)(A) 消費者保護基本法(昭和四三年法律第七八号)第四条第一項は、事業者が、その供給する商品及び役務について、危害の防止、適正な計量及び表示の実施等必要な措置を講じるとともに、国または地方団体が実施する消費者の保護に関する施策に協力する責務を有することを定めている。
(B) たばこは、前述のとおり、有害かつ危険な商品であるから、専売公社は、同項に基づき、当該商品を供給する事業者として、たばこについての適正な表示を行うべき注意義務があつた。
(ロ)(A) 有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律(昭和四八年法律第一一二号)第三条は、家庭用品の製造または輸入の事業を行う者が、その製造または輸入に係る家庭用品に含有される物質の人の健康に与える影響を把握し、当該物質により人の健康に係る被害が生じることのないようにしなければならない旨を事業者の責務として定めている。
(B) たばこは、主として一般消費者の生活の用に供される製品であるから、同法第二条第一項に定める家庭用品に該当し、専売公社は、たばこの製造事業者として、同法第三条に基づき、たばこに含有される物質の人の健康に与える影響を把握するとともに、当該物質により人の健康に係る被害が生じることのないようにするための措置を講じるべき注意義務があつた。
(2) 専売公社は、(1)(イ)(B)及び(1)(ロ)(B)の各注意義務を尽くすための具体的施策として次の各措置を講じるべき義務があつた。
(イ) 専売公社が、たばこの健康に与える影響についての研究資料を収集するとともに自らもその研究を行うこと
(ロ) たばこによる人の健康に係る被害の発生を防ぐためには、国民が喫煙をしないようにする必要があるから、そのために、専売公社が自動販売機によるたばこの販売を廃止すること
(ハ) 専売公社が、喫煙による肺癌、心臓病等の罹患率が上昇すること等の害悪及びこれらの疾病の症状及び死亡率、喫煙には慣習性があること、喫煙は喫煙者の周囲の者にも健康上の被害を及ぼすこと、非喫煙者にとつてたばこの煙は不快なものであること、公共交通機関等の公共の場所においては喫煙をしてはならないこと、喫煙に際しては、周囲の者に被害を及ぼすことのないように注意すべきこと等をたばこに表示するとともに、その他の宣伝手段によつてもたばこの消費者に対し、たばこの害悪についての適切な情報を提供すること
(ニ) 専売公社が、たばこの売上の増加のための宣伝活動を中止すること
(ホ) 専売公社が、国、地方公共団体及び被告国鉄等の公共交通機関の経営者等に対し、公共交通機関等の公共の場所における禁煙処置等を講じるように啓発活動を行うこと
(3) 専売公社は、たばこの売上の増加のみに意を用いて右(2)の処置を講じるべき注意義務を怠り、これらの措置を何も講じることなくたばこの煙による健康被害の発生を放置し、そのために、被告国及び同国鉄等の非喫煙者を保護するための対策の不備及び受動喫煙の有害性についての喫煙者の認識不足を招来するとともに、たばこの販売のための積極的な広告宣伝を実施して喫煙者を増やすとともにたばこの消費量の増加をもたらし、原告らがたばこの煙による被害を受ける機会を増大させた。このために原告らは前述の被害を受けるに至つた。したがつて、専売公社の右所為と原告らの被害との間には因果関係がある。
(4) 専売公社は、日本専売公社法に基づいて、同法第一条により国の専売事業の健全にして能率的な実施を行うことを目的として設立された公法上の法人であるが、専売事業の健全性とは専売事業が公益に合致することを意味するものである。
そして、公益を目的とする専売公社は、営利を目的とする私企業と異なり、その製造販売する商品が国民の健康及び公衆衛生等の公益を侵害する可能性がいささかでも存する限り、その可能性を積極的に除去し、あるいは減少させるため、右(2)の各措置の如き積極的措置を講じることが強く期待されていたものであるから、これを怠つた不作為の違法性は重大なものである。
(5)(イ) 日本専売公社法(日本たばこ産業株式会社法附則第二〇条第一号による廃止前のもの)第四九条、日本専売公社に対する法令の準用等に関する政令(昭和二四年政令第一一六号)第二条第一三号は、専売公社を国の行政機関とみなして国家賠償法第一条、第二条及び第四条から第六条までを適用する旨を定めていた。
(ロ) 専売公社によるたばこの製造、販売は、国の専売権の行使すなわち公権力の行使に当たるものであり、専売公社は、その製造、販売を行うことにより、故意に右各注意義務に違反したものであるから、専売公社は、国家賠償法第一条に基づき、原告らに生じた前記被害を賠償する義務があつた。
(6) 仮に、専売公社のこれらの所為が、国家賠償法第一条に該当しないとしても、民法第七〇九条に該当するから、専売公社は、不法行為に基づき、原告らに生じた前記被害につき損害の賠償をする義務があつた。
(二) 被告日本たばこの義務承継
専売公社は、日本たばこ産業株式会社法附則第一二条一項、第八条、第一条により、被告日本たばこが設立された昭和六〇年四月一日に解散し、被告日本たばこが同日専売公社の権利義務を承継した。
よつて、被告日本たばこは、原告らに対し、前述の被害による損害を賠償する義務がある。
6 被告国の責任
(一) たばこの煙による害からの保護
(1) 憲法第一三条は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大限に尊重されるべき旨を、同第二五条第一項は、国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する旨を、同第二項は、国がすべての生活部面について、公衆衛生の向上及び増進に努めるべき旨を定めている。
また、消費者保護基本法(昭和四三年法律第七八号)第一条は、消費者の利益の擁護及び増進に関して国、地方公共団体及び事業者の果たすべき責務を明らかにするとともにその施策の基本となる事項を定めることにより、消費者の利益の擁護及び増進に関する対策の総合的推進を図り、もつて国民の消費生活の安定及び向上を確保することが同法の目的である旨を、同法第六条第一項は、国が同法の目的を達成するために必要な関係法令の制定または改正を行うべき旨を、同法第七条は、国が国民の消費生活において商品及び役務が国民の生命、身体及び財産に対して及ぼす危害を防止するために、商品及び役務について、必要な危害防止の基準を準備し、その確保を図る等の必要な施策を講じるものとする旨を、同法第一〇条は、国が、消費者が商品の購入もしくは使用又は役務の利用に際しその選択を誤ることがないようにするため、商品及び役務について、商品その他の内容に関する表示制度を整備する等の施策を講じるものとする旨を、同法第一二条は、国が国民が自主性をもって健全な消費生活を営むことができるようにするため、商品及び役務に関する知識の普及及び情報の提供等の啓発活動を推進する等の施策を講じるものとする旨を定めている。
(2) たばこは古くから嗜好品として取り扱われ、喫煙と健康との関係は、もっぱら喫煙者自身の保健衛生上の問題とされていたが、昭和二九年ころから非喫煙者に対する影響について研究が開始され、昭和五〇年ころから世界保健機構の専門委員会の勧告及び同総会の決議等により受動喫煙には有害性があり非喫煙者をたばこの煙による害から保護するための措置を講じるべき旨が明らかにされるに至つたが、我が国の政府は、右の憲法及び消費者保護基本法の各規定に基づいて、非喫煙者をたばこの煙による害から保護するための具体的措置を講じるべきであつたのに、次のとおりこれを怠つた。
(二) 運輸大臣の任務懈怠
(1) 運輸大臣は、運輸省設置法第四条第三〇号及び日本国有鉄道法第五二条により被告国鉄を監督する権限を有し、同法第五四条第一項により公共の福祉を増進するために必要があると認めるときは、被告国鉄に対し監督上必要な命令をする権限を有する。
(2) 鉄道運輸規程第二一条第二号及び第四号は、旅客が保険衛生上有害な行為及び他人に危害を及ぼすべき虞れのある行為をすることを禁止しているが、被告国鉄は、同条の趣旨により、ある旅客による保険衛生上有害な行為及び他人に危害を及ぼすべき虞のある行為により他の旅客が被害を受けることを防止する義務があるものである。そして、たばこの煙が喫煙者の周囲にいる者に対して健康上の被害を及ぼすものであることは前述したとおりであるから、被告国鉄は、客車内における喫煙を禁止する等の方法により旅客の身体にたばこの煙による健康被害が生じないように配慮すべき義務があるにも拘らず、これを怠つたために、原告らは前述の被害を受けた。
(3) 運輸大臣は、被告国鉄に対する右監督権限を適切に行使し、右の状態を是正し、非喫煙者を保護するために、禁煙車輛を設置する等の措置を講じるように訓令すべき義務があつたのにも拘らずこれを怠つた。
(4) したがつて、原告らの前記被害は、運輸大臣の被告国鉄に対する監督権限の違法な不行使に基づいて生じたものというべきであるから、被告国は、国家賠償法第一条第一項に基づいて原告らに対し、その損害を賠償する義務がある。
(三) 大蔵大臣の任務懈怠
(1) 大蔵大臣は、日本専売公社法第四四条第一項により、専売公社を監督する権限を有し、必要があると認めるときは、専売公社に対し、その業務に関して監督上必要な命令を発することができる地位にあつた。
(2) 専売公社は、日本専売公社法に基づいて、同法第一条により国の専売事業を健全かつ能率的に実施することを目的として設立された公法上の法人であるが、前述のとおり、たばこが喫煙者はもとよりその周囲の非喫煙者に対しても、健康上の被害を与えるものであるから、専売事業の健全性を確保するために、喫煙者及び喫煙本数の減少を図るための措置を講じるべき義務があつたにも拘わらず、これを怠り、かえつて、たばこの自動販売機を設置したり、たばこの健康に対する害を隠ぺいしたりして、たばこの売上の増大をはかつたため、原告らは、前述の被害を受けるに至つた。
(3) 大蔵大臣は、専売公社に対する右監督権限を行使して右の状態を是正し、専売事業の健全性を確保するために、専売公社がたばこの害を周知させるための宣伝をしたり、喫煙者に周囲の非喫煙者の承諾なしに喫煙をしないように、また、公共交通機関及び公共の場所等においては喫煙をしないように注意を喚起したり、喫煙者数及び喫煙本数を減少させるための措置を講じるように命令すべき義務があつたのに、これを怠つたばかりか、財政収入を確保するために、専売公社と共に、たばこの売上の増大を図つてきた。
(4) したがつて、原告らの前記被害は、大蔵大臣の専売公社に対する監督権限の違法な不行使に基づいて生じたものであるから、被告国は、国家賠償法第一条第一項に基づいて原告らに対し、その損害を賠償する義務がある。
(四) 厚生大臣の任務懈怠
(1)(イ) 厚生大臣は、厚生省設置法第四条第一項に基づき、公衆衛生等の向上及び増進を図ることを任務とし、国民の健康その他の行政事務及び事業を一体的に遂行する責務を有し、右責務を遂行するために、同法(昭和五八年法律第七八号による改正前のもの。以下同じ)第五条第九号及び第一一号(右改正後においては同条第四号)に基づき、所掌事務に関する統計、調査資料その他の資料を作成、提供すること並びに所掌事務に関し資料の収集、準備及び宣伝を行うことについての権限を有していた。
(ロ) 国は、世界保健機構の前述の勧告等に基づいて、たばこの煙には前述のとおりの有害性があることを知つていたのであるから、厚生大臣は、右の権限を行使し、たばこが人の健康に与える影響についての統計を作成し、これを運輸大臣、大蔵大臣、被告国鉄及び専売公社に提供し、たばこの害についての宣伝を行うとともに、これらの者が次のとおりの措置を講じるように働きかけるべき義務があつた。
(A) 運輸大臣において、被告国鉄に対する監督権限を適切に行使し、被告国鉄に対し、たばこの害から国民の健康を守るための措置を講じるように訓令すること
(B) 大蔵大臣において、専売公社に対する監督権限を適切に行使し、専売公社に対し、たばこの害から国民の健康を守るための措置を講じるように訓令すること
(C) 被告国鉄において、全路線において十分な割合の禁煙車輛を設置する等の非喫煙者対策を講じること
(D) 専売公社において、たばこの煙が喫煙者の周囲にいる者に対して不快かつ有害であるから交通機関等の公共の場所及び非喫煙者のいる場所における喫煙をしないようにすべき旨をたばこに表示すること並びにたばこの有害性について積極的に宣伝して喫煙人口及び喫煙本数の減少に努めること
(2)(イ) 有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律は、有害物質を含有する家庭用品について保健衛生上の見地から必要な規制を行うことにより国民の健康の保護に資することを目的として制定されたものであり(同法第一条)、同法第二条第二項は、家庭用品に含有される物質のうち、水銀化合物その他の人の健康に係る被害を生ずるおそれがある物質を政令により同法の「有害物質」と定めるものとし、同法第四条第一項は、厚生大臣が厚生省令により、家庭用品を指定し、当該家庭用品について右有害物質の含有量、溶出量又は発散量に関し必要な基準を定めることができるものとし、同条第二項は、厚生大臣が厚生省令により、毒物及び劇物取締法第二条第一項及び第二項に規定する毒物及び劇物である有害物質を含有する家庭用品を指定し、その容器及び包皮に関して必要な基準を定めることができるものとし、同法第五条は、右の各基準に適合しない家庭用品の販売、授与及び販売目的の陳列を禁止し、同法第六条第一項は、右の各基準に適合しない家庭用品が販売又は授与されたことにより人の健康に係る被害が生じるおそれがあり、かつ、当該被害の発生を防止するために特に必要があるときは、厚生大臣又は都道府県知事(保健所を設置する市にあつては市長)が当該家庭用品の販売事業を行う者等に対し、当該家庭用品の回収を図ること等の当該被害の発生を防止するために必要な措置をとるべきことを命令することができるものとし、同条第二項は、家庭用品によるものと認められる人の健康に係る重大な被害が生じた場合において、当該被害の態様等からみて当該家庭用品に当該被害と関連を有する人の健康に係る被害を生ずるおそれのある物質が含まれている疑いがあるときは、当該物質が同法第二条第二項に基づく政令により有害物質とされておらず、又は当該物質について同法第四条に基づく基準が定められていなくても、厚生大臣又は都道府県知事(保健所を設置する市にあつては市長)が、当該被害の拡大を防止するため必要な限度において当該家庭用品の販売事業を行う者等に対し、当該家庭用品の回収を図ること等の当該被害の発生を防止するために必要な応急措置をとるべきことを命令することができるものとしている。
(ロ) 同法は、全消費財について保健衛生の見地からの規制を行うことについての一般法である。そして、同法第二条第一項は、同法にいう家庭用品を主として一般消費者の生活の用に供される製品であつて同法別表所定のものを除くものと定義しているが、同法の右の位置付けからすれば、同法の家庭用品とは、別個の法律により規制されている同法別表所定の物品を除き、国民が日常生活において使用しているあらゆる物品を含むものであり、たばこも同法にいう家庭用品に含まれるものである。
(ハ) たばこには、人の健康に係る被害を生ずるおそれのある物質が含まれており、たばこの副流煙により非喫煙者に対し重大な健康上の被害が生じているのであるから、厚生大臣は、同法第六条第二項に基づく広急措置として、専売公社に対し、たばこの宣伝広告を禁止すること、たばこの有害性を宣伝すること、これについての表示を明確にすること、たばこの自動販売機を撤去すること等の喫煙人口及び喫煙本数を減少させるための措置並びに公共交通機関の車内においては非喫煙者のために喫煙を差し控えるべき旨の注意書をたばこに付すること、専売公社において公共交通機関の管理者に対し車内を原則として禁煙とするように働きかけること等の非喫煙者を保護するための措置を講じるとともに、人の健康に係る被害を生ずるおそれのある物質の含有量を可能な限り減らしたたばこを製造すべき旨を命じる義務があつた。
(ニ)(A) たばこの煙には、ベンツピレン、ホルムアルデヒド、ニコチン、シアン化水素、アンモニア、アクロレイン、塩化水素等の人の健康に係る被害を生ずるおそれがある物質が含まれているが、このうち、同法第二条第二項に基づいて制定された同法施行令により有害物質とされているのは、塩化水素及びホルムアルデヒドに過ぎない。
(B) たばこの煙によつて人の健康に生じている被害は広範かつ重大であるから、厚生大臣は、同法の主務大臣として、閣議を求めるなどして、たばこの煙に含まれる右各物質のうち塩化水素及びホルムアルデヒド以外のものが政令により同法第二条第二項の有害物質に定められるように努めるとともに、同法第四条一項に基づき、厚生省令により、たばこを指定し、少なくとも塩化水素及びホルムアルデヒドについてその含有量、溶出量又は発散量に関し必要な基準を定めるべき義務があつた。
(C) たばこの煙の中には、毒物及び劇物取締法第二条第一項所定の毒物であるニコチン、シアン化水素、同条第二項所定の劇物であるアンモニア、アクロレイン、ホルムアルデヒドが含まれているのであるから、厚生大臣は、同法第四条第二項及び消費者保護基本法第一〇条に基づいて、たばこを厚生省令で指定し、たばこの包皮に関して、たばこの有害性及び慣習性についての情報及び警告、受動喫煙の有害性についての情報、公共交通機関等においては喫煙を控えるべき旨の表示をする等の必要な基準を定めるべき義務があつた。
(3) 厚生大臣は、右(1)(ロ)及び(2)(ロ)、同(ハ)の各措置を講じるべき義務があつたのにも拘らず、これを怠つたため、前述のとおり、専売公社がたばこの積極的な販売を行い、運輸大臣が被告国鉄に対する監督義務を懈怠し、大蔵大臣が専売公社に対する監督義務を懈怠し、このため、原告らが前述の各被害を受けるに至つた。したがつて、原告らの前記被害は、厚生大臣の権限の違法な不行使に基づいて生じたものであるから、被告国は、国家賠償法第一条第一項に基づいて原告らに対し、その損害を賠償する義務がある。
7 損害
原告らは、いずれも、被告国鉄の運行する列車に乗車し、車内のたばこの煙に曝露されて健康上の被害を受けたが、各原告の乗車した列車、その車内の喫煙状況及び被害の内容等は、次のとおりである。
(一) 原告福田緑の被害
(1) 原告福田緑(以下、「原告福田」という。)は、非喫煙者であつてたばこの臭いには強度の不快感を覚え、体質的に呼吸器等が弱いためにたばこ煙に対して、アレルギー反応がおき、受動喫煙によつてせき、くしやみ、鼻水、眼の痛み、かゆみなどの症状を呈する。
(2) 原告福田は、昭和五五年三月二九日土曜日午前一〇時東京発の新幹線ひかり五号博多行に、東京から広島までの間約五時間一〇分間にわたつて乗車したが、その当時は、「ひかり」に禁煙車両が設置されていなかつたため、指定席である一〇号車の二二番E席に着席した。一〇号車はほぼ満席で、原告福田の座席の周囲に幼児が数名いたにもかかわらず、車両には約一〇名を超える喫煙者がいた。原告福田の前席および前前席にも喫煙者がおり、屡々喫煙していた。車内の換気は十分ではなく、たばこの煙は上方に滞留し、汚染は一見して明らかであつた。
原告福田は、乗車前は健康であり、身体に異状は全くなかつたが、東京・広島間において終始たばこの煙に曝され、この間に眼のかゆみ、鼻への刺激を感じ、せき、くしやみ、鼻水が出、息苦しい状態が続いた。特に、前席でたばこを吸われると右の症状が顕著になり、これが車内のたばこの煙によるものであることは明らかであつた。
発車してからしばらくして、原告福田は車内のたばこの臭気や煙による刺激のため気持が悪くなり、しばらく静かに休みたいと思つたが、前席にいる喫煙者のたばこの煙が、うとうとと眠りかかった鼻先に漂つて来るため眠ることもできず、また、満席のため他の席へ避難することもできず、下車するまでの間は苦痛の連続であつた。ことに鼻水については、これまでも室内や車内に漂うたばこの煙によつて鼻が刺激され、鼻水が止まらなくなつたことがあつたので、このひかり号の車中でも同様の事態が生ずることが予想された。そこで予めテッシュペーパーを四パックも持参して乗車したが、車内で三パックを使い切り、四パックめも殆んどなくなりそうになるほど頻繁に鼻をかまなければならなかつた。
このように、列車内での受動喫煙による被害の特殊性は、列車内の空気全体がたばこの煙によつて汚染され、これを吸い込むことによつて生ずる被害のほか、喫煙者のはき出した煙や置きたばこから生ずる濃厚な副流煙が、直接に希釈されないまま受動的喫煙者の鼻腔を襲うことである。しかも、狭い車内ではこれを避けたくとも避ける術がない。さまざまの肉体的苦痛はもちろん、このような状態でたばこ煙の悪臭、刺激に耐えなければならない精神的いらだちは極めて強度のものなのである。原告福田は、広島で下車した後も、このような症状がかなりの長時間持続し、特に鼻水やのど、鼻のむずがゆさは顕著であつて容易に消失しなかつた。また髪や衣服にしみついたたばこの臭いがなかなかとれず、長時間にわたつて不快の念を拭うことができなかつた。
(3) 原告福田は、昭和五五年三月三一日月曜日午前一〇時一二分広島発の新幹線ひかり二二号(博多始発東京行)に、広島から東京まで約五時間八分間にわたつて乗車し、一五号車一九番A席に着席したが、車内はほぼ満席で同座席の周囲には多数の喫煙者がいた。
ひかり二二号は、博多始発のため、原告福田が広島で乗車したときは、すでに車内はたばこの煙で汚染され、原告福田は乗車と同時に不快感を覚えた。そして、原告福田は、五時間余もの間、たばこの煙に曝され、眼のかゆみ(これはたばこ煙によるアレルギー性結膜炎である)、鼻への刺激、頭痛を感じ、せきと鼻水が出て息苦しい状態を余儀なくされた。ことに名古屋からは隣席に喫煙者が座り、東京に着くまでの間、約三〇分に一本程の割合で喫煙したため、たちのぼる煙に往路と同様の肉体的及び精神的苦痛を強いられた。原告福田が東京で下車した後も前記の症状は残り、髪、体及び衣服にはたばこの臭いがしみついていた。
(4) 原告福田は、昭和五五年一一月二四日金沢発午前七時四四分の北陸本線白山二号に、富山から上野までの間を約七時間にわたり、その七号車八番B席に乗車したが、乗車率は、定員四八名に対し、午前八時三〇分ころが二〇名、午前一〇時三〇分ころが三八名、午前一一時五〇分ころが五二名であつた。
喫煙者は、車内にほぼ均等に分布して着席しており、その割合は、乗客の三八パーセントであつた。まず喫煙者の近くから空気が白く濁り始め、一〇時すぎには車内全体が白く見えた。幼児の近くにも喫煙者が座つていて無神経にたばこをふかしていた。
原告福田は、はじめ右眼のふちがかゆくなつたが、次第に目の中までかゆくなつたのを感じた。発車後まもなく喫煙が始まつたが(少数は発車前から喫煙していた)、そのときから頭が重く、とくに多数の喫煙者が一度に喫煙したときなどは頭痛がした。一一時すぎにはのどがヒリヒリし、咳が頻繁に出るようになつた。その咳もだんだんひどくなつて、肺の底からしぼり出すような深い咳に変つて行つた。
(二) 原告中田みどりの被害
(1) 原告中田みどり(以下「原告中田」という。)は、非喫煙者であり、たばこの臭いに不快感を覚え、たばこ煙による刺激悪臭によつて、せきが出たり、頭が重くなり、息苦しくなるなどの症状を呈する。
(2) 原告中田は、昭和五五年三月二七日午前一一時二四分東京発の新幹線ひかり一三一号の一三号車二〇番D席に、東京から京都までの間乗車した。同車両の乗車率は、ほぼ一〇〇パーセントであり、乳幼児も一七名程度乗車していたが、原告中田の座席の周囲には、九名の喫煙者が着席しており、さらにその周囲には、一〇名程度の乳幼児が喫煙者と隣り合わせに、あるいは、喫煙者にはさまれるように着席していた。しかし、喫煙者たちは、乳幼児や子供たちには一切配慮することなく喫煙した。このため、東京駅を発車する時には、澄んでいた車内の空気は、喫煙者のたばこ煙のために、時間が経つにつれて徐徐に汚染されて行つた。そして、原告中田は、たばこの煙が目にしみ、頭は重くなり、せきが出、息苦しく気分が悪くなつた。
(3) 原告中田は、昭和五五年三月三〇日午後一時二九分京都発の新幹線ひかり六号に、京都から東京までの間乗車した。原告中田が京都駅で乗車した時には、車内の空気は、喫煙者のたばこの煙でかなり汚れていた。乗車率はほぼ一〇〇パーセントであり、喫煙者は一〇人位いた。車内には幼児や子供が一五人位いた。原告中田は、一時間位してから息苦しくなつたので、デッキに避難し、約三〇分デッキに立つていたあと自己の座席に戻つた。原告中田が着けていた「たばこの煙がにがてです」というバッヂを見たのか、隣りの喫煙者が、たばこをひかえてくれたので、少し楽になつた。しかし、たばこの煙による車内の汚染のため、せきが出て、止まらなかつた。東京駅に着いたときには頭が重くなり、一時間位その状態が続いた。
(三) 原告沖本美紀子の被害
(1) 原告沖本美紀子(以下、「原告沖本」という。)は、非喫煙者であり、たばこの臭いに不快感を覚え、たばこ煙による刺激悪臭によつて眼の痛み、胸苦しさ、頭痛などの症状をきたすことがある。
(2) 原告沖本は、昭和五五年二月二四日日曜日午前七時二三分上野発の急行佐渡一号に、上野から石打までの間約三時間一五分間にわたつて、その自由席の一一号車に乗車したが、乗車率は一四〇パーセントであり、乗客が通路にもあふれていた。乗客の約半数が喫煙者であつたため、車内の空気汚染はひどく、また、換気も悪く、原告沖本ほかの非喫煙者にとつては車内の環境は耐えがたいものであつた。車内にあつたこの三時間余の間、原告沖本はたばこの煙が眼にしみ、眼の痛み、眼のかゆみ、のどがいがらつぽさが消えず、のどの痛みに耐えながら、息苦しい旅を続けざるをえなかつた。そして、下車後も髪、身体、衣服にたばこの不快な臭いが残つた。なお、停車中に、原告沖本は、あまりに汚れた車内の空気を少しでも変えようとして、窓を開けた。ところが後部の喫煙者から寒いと苦情をいわれたため、すぐに閉めざるを得なかつた。そこで原告沖本は、喫煙者にたばこをやめてくれるよう要請したが全く無視され、三時間以上にわたる苦痛をただ耐え忍ぶしかなかつた。
(3) 原告沖本は、昭和五五年二月二六日火曜日午後五時四〇分石打発の特急新雪四号に、石打から上野までの間を約二時間四五分間にわたつて、その三号車の指定席に乗車したが、乗車率は一〇〇パーセントで、乗客のうちの約半数が喫煙者であり、換気がほとんどなされていなかつたため、車内の空気はひどく汚染されていた。特急列車の場合は窓の開閉もできないので、原告沖本は、約三時間にわたり、ただ煙に耐えていた。その間、煙が眼にしみ、最初は眼がかゆく、次第に眼が痛み出して涙も出はじめ、のどもかさかさした状態から痛みを覚え、せきが出て、胸もしめつけられて苦しくなつた。下車後も眼のかゆみ、のどのかさつき、胸の苦しさはかなり持続し、髪、身体、衣服にたばこの不快な臭いが残つた。
(4) 原告沖本は、昭和五五年三月五日水曜日午前七時二三分上野発の急行佐渡一号に、上野から石打までの間を約三時間一五分間にわたつて、その一一号車の自由席に乗車したが、乗車率は一五〇パーセントで、乗客の約半数が喫煙者であつた。換気は悪く、たばこによる車内の空気汚染も激しいため、たばこの煙は眼にしみ、眼のかゆみ、痛み、鼻やのどの痛みを覚え、せきも出て胸がしめつけられ、息苦しい時間を過さざるをえなかつた。下車後も眼のかゆみ、のどのかさつき等は持続し、たばこの不快な臭いが髪、身体、衣服に沁み着いて残つた。
(5) 原告沖本は、昭和五五年三月六日木曜日午後五時四〇分石打発の特急新雪四号に、石打から上野までの間を約二時間四五分間にわたつて、その七号車の指定席に乗車したが、乗車率は一〇〇パーセントで、乗客の約半数が喫煙者であつた。換気は悪く、たばこによる車内汚染が激しいため、煙が眼にしみ、眼のかゆみ、痛み、のどの痛みも覚え、涙が出たり、せきが出たりして胸がしめつけられる等の苦痛を受けた。下車後も、たばこの不快な臭いが髪、身体、衣服に沁み着いて残つた。
(四) 原告和田廣治の被害
(1) 原告和田廣治(以下「原告和田」という。)は、別紙原告和田の乗車一覧表記載のとおり、被告国鉄の運行する列車に乗車したが、各乗車時の窓の開閉状況、乗客数(または乗車率)、喫煙者数は、同表各欄記載のとおりであり、各乗車の際たばこの煙に曝されたことによつて、同表症状欄記載のとおりの被害を受けた。
また、同原告は右別表に記載されている外に、昭和五八年一〇月三〇日に午後一〇時三二分小杉発の上野行急行能登に、小杉から上野までを約八時間三〇分にわたつて乗車したが、その際に、たばこの煙が充満した車内に乗車することを余儀なくされたため、のどが痛むなどの被害を受け、同年一一月一日に耳鼻咽喉科の医師の診察を受け、急性咽喉頭炎との診断を受けた。
(2) 原告和田は、通勤のために、昭和五二年七月一日から昭和五六年八月六日までの間、被告国鉄の北陸本線富山駅から高岡駅までの間を、いずれも片道約二〇分間にわたつて、別紙原告和田廣治の利用した通勤列車一覧表AないしF記載のとおり乗車し、昭和五六年八月一〇日から昭和五八年三月末日までの間、北陸本線小杉駅から高岡駅までの間を、いずれも片道約一〇分間にわたつて、別紙原告和田廣治の利用した通勤列車一覧表GないしJ記載のとおり乗車し、昭和五八年四月一日から昭和五九年二月一二日までの間、北陸本線小杉駅から富山駅までの間をいずれも片道約一二分間にわたつて、別紙原告和田廣治の利用した通勤列車一覧表K及びL記載のとおり乗車した。右各列車は混雑しており、喫煙者数は、平均一五パーセントであり、その窓は開閉可能なものであつたが、冬季は寒気のため、夏期は冷房のため事実上開閉ができないことが多かつた。
(3) 原告和田は、右の各列車に乗車し、乗客のたばこの煙に曝露されたことによつて、眼、喉及び胸の痛み、頭痛、吐き気の被害を受けた。
(五) 原告飯高正勝の被害
(1) 原告飯高正勝(以下「原告飯高」という。)は、別紙原告飯高の乗車一覧表記載のとおり、被告国鉄の運行する列車に乗車し、各乗車時にデジタル粉塵計P5型を持参して車内の浮遊粉塵量を測定したが、各乗車時における粉塵の平均値及び最大値、各乗車時の窓の開閉状況、乗客数(または乗車率)、乗客の喫煙本数は、同表各欄記載のとおりであり、各乗車の結果、たばこの煙に曝されたことによつて、同表症状欄記載のとおりの被害を受けた。
(2) 建築物における衛生的環境の確保に関する法律第四条第一項、第二項、同法施行令第二条第一号イは、特定建築物についての建築物環境衛生基準として、中央管理方式の空気調和設備を有する居室における空気中の浮遊粉塵量を一立方メートル当り〇・一五ミリグラム以下にすべき旨を定めており、列車内の空気中の浮遊粉塵量についても同基準が一応の目安となるが、別紙原告飯高の乗車一覧表記載のとおり、原告飯高が乗車した各列車内の空気中の浮遊粉塵量は、最大値がいずれも〇・一五ミリグラムを超えており、平均値が〇・一五ミリグラムを超えるものが二一例中一二例に上つている。そして、列車内の浮遊粉塵は、乗客のたばこの煙によるものであるから、原告飯高の乗車した各列車の車内は、いずれも、乗客のたばこの煙に汚染されていたものというべきであり、同表症状欄記載の各被害は、列車内のたばこの煙によつて生じたものである。
(六) 原告加藤たきの被害
原告加藤たき(以下「原告加藤」という。)は、昭和五七年一月一五日東北本線の特急ひばり一二号に、上野から仙台までの間を約四時間にわたつて乗車したが、原告加藤が乗車するなり、ムッと鼻をつく刺激臭があり、原告加藤が「臭い」と思わず声を出した程であつた。これから四時間余りをこのたばこの煙臭い中じつと耐えなければならないのかと暗たんたる気持になつた。乗車率は一〇〇パーセントであり、二ないし五箇所からたばこの煙が吐き出され続け、原告加藤は、目に煙が沁みて涙つぽくなり、鼻の奥の方に刺激を感じ、喉はいがらつぽく声がひつかかる感じで、頭痛がし、イライラとし続けた。避難場所はトイレだけであつた。
(七) 原告久保田晶子の被害
原告久保田晶子(以下「原告久保田」という。)は、昭和五七年八月一三日内房線の急行内房に、両国から館山までの間を約二時間三〇分間にわたつて乗車した。乗車率は約九〇パーセントであり、乗客中の喫煙者は四分の一程度であつて、車内の空気は、たばこの煙で白濁していた。原告久保田は、その前後左右を喫煙者に囲まれ、客車の窓が開いていないので、苦しい思いをし、たばこの煙から逃れるため、やむなく館山到着前の一時間程度の間は、頻繁に客車の連結部分に出て行つた。原告久保田は、喉がヒリヒリしたため、通院して喉の治療を受けた。
(八) 原告佐々木恵司の被害
原告佐々木恵司(以下「原告佐々木」という。)は、昭和五六年一二月二三日午後一一時五五分上野発の東北本線の特急あずま三号に、上野から仙台までの間を約七時間一〇分間にわたつて乗車し、翌二四日仙台発午前八時六分の東北本線の普通列車に、仙台から青森までの間を約八時間五三分間にわたつて乗車し、さらに、函館発同日午後一一時五一分の函館本線の列車に、函館から札幌までの間を約七時間にわたつて乗車した。乗車率は六〇パーセントであり、乗客の四〇パーセントが喫煙者であつたため、原告佐々木は、右各列車に乗車していた間、煙の不快な臭いに苦しみ、眼が沁み、喉がいがらつぽくなつた。上野から大宮までの間は特に混雑していて、原告佐々木のすぐ側にも喫煙者がいたので、原告佐々木は、マスクをし、度々窓を開いたが、隣のボックス席に座つていた三人の乗客は、これを見て、「ここは禁煙じやないよな」等と言つていた。
(九) 原告テイム・ベーケンの被害
(1) 原告テイム・ベーケン(以下「原告ベーケン」という。)は、昭和五六年一二月二四日午後一時三四分上野発の高崎線急行佐渡三号に、上野から高崎までの間を約一時間三〇分にわたつて乗車した。乗車率は五〇ないし七五パーセント程度であり、乗客中の約四分の一が喫煙者であつたため、原告ベーケンは、乗車したとたんに煙の臭いを感じたが、車内が暖房中であつたため窓を開くことができず、やむなく煙にさらされ、眼が赤くなつて痛み、降車するまで不快感のためにイライラした。
(2) 原告ベーケンは、昭和五七年三月一五日午後一時四九分ころ高崎発の高崎線上り普通列車に、高崎から上野までの間を約一時間五七分間にわたつて乗車した。乗車率は五〇ないし一〇〇パーセントであり、途中立つている乗客も四〇名程度おり、扉の開閉の際を除けば換気がなされていなかつたので、原告ベーケンは、喫煙者のたばこの煙の影響により、眼が赤くなつて痛み、煙の臭いのために不快感を感じてイライラした。
なお、高崎線の熊谷から上野までの間は、禁煙区間であるにも拘らず、原告ベーケンの周囲では、同区間において少くとも四名が喫煙をしていた。同区間を走行している間、禁煙区間である旨を告げる車内放送はなされなかつた。
(3) 原告ベーケンは、昭和五八年七月一一日午後一時四七分高崎発の高崎線上り普通列車に、高崎から上野までの間を約一時間五七分間にわたつて乗車した。乗車率は七五ないし八五パーセント程度であり、原告ベーケンが乗車した際には、車内はかなり煙臭く、窓は全部閉められており、客車には換気扇も付いていなかつた。喫煙者の割合は乗客の約三〇パーセントであつたが、熊谷から上野までの間は禁煙区間であるにも拘らず、同区間において少くとも三名以上が喫煙しており、同区間を走行している間、禁煙区間である旨を告げるための車内放送はなされなかつた。このため、原告ベーケンは、眼及び喉が痛むとともに頭痛がし、たばこの臭いのためにイライラし続けた。
(一〇) 原告東條秀隆の被害
原告東條秀隆(以下「原告東條」という。)は、昭和五七年一月八日午後四時三〇分ころ宮崎発の日豊線特急にちりん三二号に、宮崎から別府までの間を約三時間三〇分にわたつて乗車した。乗車率は約六三パーセントであつたが、乗客の約半分が喫煙者で車内はもうもうとしていた。そして、喫煙者一人当り乗車中に三ないし一〇本のたばこを吸つた。特に原告東條の左斜め前の男性は、三時間半の間、間断なく吸い続け降車までに一〇本を吸つた。このため原告東條は眼がショボショボし、喉がヒリヒリし、呼吸に伴つてむせるような感じがした。また、煙臭さにムカムカし、食欲がなくなつた。喉の痛みは翌日中続いた。途中手洗所の小窓を開け、外気を吸つたりした。原告東條の右隣には妊婦であつた原告の妻がいたが、その前の席の喫煙者の煙が妻にかかるので非常に心配であつた。たまりかねて途中、車掌に換気を依頼したが全く無視され、日没後には自然換気穴を閉めた程の無関心さであつた。
(一一) 原告柳原宏行の被害
原告柳原宏行(以下「原告柳原」という。)は、別表「原告柳原宏行の乗車状況」記載のとおり、各列車に乗車したが、いずれの車内においても同表記載のとおり喫煙がなされていたため、たばこの煙によつて、頭痛及び喉の痛みを覚え、気分がイライラし、居眠りをしていてもたばこの煙の不快感で目が覚めてしまつた。
(一二) 原告渡辺文学の被害
(1) 原告渡辺文学(以下「原告渡辺」という。)は、昭和五七年二月一〇日、午後一一時二〇分ころ上野発の常盤線の急行十和田五号に、上野から青森までの間を約一二時間二一分にわたつて乗車したが、原告渡辺の前後及び右隣に喫煙者がいたため、そのたばこの煙により、眼、鼻及び喉の痛み並びに不快感を感じたが、そのうちでも、特に喉が苦しく、乗車中に度々うがいをした。
(2) 原告渡辺は、昭和五七年二月一二日午後零時五五分青森発の東北本線の特急はつかり一〇号に、青森から上野までの間を約八時間四七分間にわたつて乗車したが、約五〇名の乗客のうち、喫煙者が四〇パーセント程度おり、眼及び喉に痛みを感じ、帰宅後妻から頭と背広がたばこ臭いと言われた。
(一三) 原告浅野望及び同浅野響の被害
浅野晉は、原告浅野望及び同浅野響(以下この両名を「原告浅野ら」という。)の親権者父であり、浅野陽子は、原告浅野らの親権者母である。
原告浅野らは、昭和五七年一〇月一一日猪苗代発午後一時二七分の盤越西線、東北本線の急行ばんだい六号に、猪苗代から上野までの間を約五時間にわたつて乗車した。車内は乗車当初より満員で、立つている人が一〇ないし二〇名いた。原告浅野らの座つていた席の隣のボックス席の四名がかわるがわる喫煙するため、車内の空気は非常に汚れていたが、小雨が降つていたため、窓をあけることもできなかつた。この汚れた空気のため、原告浅野らは、いずれも途中で気分が悪くなり、宇都宮をすぎたあたりで二人で車掌に何とかしてほしいと言いに行つたが、何らの措置も講じてもらえなかつた。小山あたりにくると、ついに原告浅野響が頭が痛いといつて泣き出したため、止むを得ず、同行していた父親の浅野晉は、隣席の人達にたばこを控えてもらうよう頼んだ。しかし、隣席の人は、しばらくすると、窓を細めにあけて喫煙をはじめたため、ほとんど効果がなく、原告浅野響は、上野まで泣き続けた。
(一四) 損害額
原告らが右の各被害を受けたことによつて被つた精神的苦痛に対して被告らが支払うべき相当な慰藉料は、原告和田については金五〇〇万円を下らず、同飯高については金三〇〇万円を下らず、その余の原告らについては各金一〇万円を下らない。
8 結論
よつて、原告らは、被告国鉄に対し、人格権に基づき、原告和田は、これに加えて、定期券の購入による運送契約に基づいて、同被告の管理に係る全線区(原告和田の運送契約に基づくものは北陸本線の小杉駅から富山駅までの間)の鉄道について、各列車の客車のうち半数以上を禁煙車とすることを、被告国鉄、同日本たばこ及び同国に対し、各自が慰藉料として、原告和田に対しては金五〇〇万円を、原告飯高に対しては金三〇〇万円を、その余の原告ら各自に対しては金一〇万円ずつを支払うことを求める。
二 被告国鉄の本案前の抗弁
原告らは、被告国鉄に対し、被告国鉄の管理する各列車の客車のうち半数以上を禁煙車輛とすることの作為を請求するが、右請求は、客車が禁煙車輛とされるという結果自体は明確であるとしても、その結果を作出するための手段ないし方法については、営造物管理規則を制定すること、あるいは、客車に禁煙車輛の表示を設置することなど種々の形態があり、特定されていない。そして、結果作出の手段、方法が特定されなければ、当該請求権の強制執行における実現に当たり、代替執行によるべきか間接強制によるべきかを判断することもできないから、原告らの右請求は、内容が不特定であつて不適法なものである。
三 被告国鉄の本案前の抗弁に対する原告らの反論
原告らの被告国鉄に対する禁煙車輛の設置を求める請求は、被告国鉄が、公営造物たる列車等の施設の管理権の主体として、その営造物管理権限に基づいて、営造物たる列車の利用者たる乗客に対し、営造物管理規則を定める等適宜の手段によつて、列車内の喫煙を禁止することにより、禁煙車輛を設置せよというものであり、ここにいう「禁煙車輛」とは、鉄道営業法第三四条第一号の「吸煙禁止」の車輛と同意義のものである。
そして、右の営造物管理権は被告国鉄に専属するものであつて、第三者が代替して行使することができないものであるから、原告らの被告国鉄に対する禁煙車輛の設置を求める請求は、非代替的な作為を求めるものである。
非代替的な作為義務の強制執行の方法は、間接強制(民事執行法第一七二条)であるが、間接強制は、執行裁判所が当該作為義務が履行されないときに制裁金を債務者に課するにすぎないから、作為の結果が特定されていれば当該作為義務の履行の有無を判断することができるので、間接強制を行うことが可能である。したがつて、非代替的作為義務の履行を求める給付訴訟の請求の趣旨においては、当該作為義務の履行の結果のみを特定すれば足り、作為義務履行の具体的な手段、方法までも特定する必要はないものである。
右のとおり、原告の被告国鉄に対する禁煙車輛の設置を求める請求は、作為義務の履行の結果の点において明確に特定されているから、特定性に欠ける点はなく、適法である。
四 請求原因に対する被告国鉄の認否
1 第1項の事実のうち、(一)の点は知らない。その余は認める。
2 第2項の事実のうち、(一)及び(二)の点は争う。同(三)のうち、(1)の未成年者喫煙禁止法の存在、デパート等で喫煙規制がなされていること及び(2)(二)の点は認め、その余は争う。
3 第3項は争う。
4 第4項(一)の事実のうち、(1)の被告国鉄が公法上の法人であることは認め、その余は争う。
同(二)の事実のうち、(1)の点は認め、その余は争う。
同(三)の事実のうち、被告国鉄が原告ら主張の認識をしていたことは否認し、その余は争う。
5 第7項の事実中、原告らが乗車したと主張する列車が運行されていたこと及びその列車中に禁煙措置が講じられていないものがあつたことは認め、その余は争う。
五 請求原因に対する被告国及び被告日本たばこの認否
1 第1項の事実のうち、(三)及び(四)の点を認め、(一)は知らない。
2(一)(1) 第2項(一)(1)の事実のうち、(イ)の点は認め、(ロ)及び(ハ)の点は否認する。
(2) 同(2)の事実のうち、(イ)の点は知らない。(ロ)の点は否認する。
(二)(1) 同項(二)(1)の事実は認める。
(2) 同(2)の事実は知らない。
(三) 同項(三)の事実のうち、(1)の点は認める。同(2)のうち(ロ)の点は知らない。その余は認める。同(3)は争う。
3(一)(1)(イ) 第5項(一)(1)(イ)の事実のうち、(A)の点は認め、(B)の点は争う。
(ロ) 同(ロ)の事実のうち、(A)の点は認め、(B)の点は争う。
(2) 同(2)ないし(6)の点は争う。
(二) 同項(二)の事実のうち、被告日本たばこが専売公社の権利義務を承継したことは認める。
4(一)(1) 第6項(一)(1)の事実は認める。
(2) 同(2)の事実は知らない。
(二)(1) 同項(二)(1)の事実は認める。
(2) 同(2)の事実のうち、鉄道運輸規程第二一条第二号及び第四号が旅客が保険衛生上有害な行為及び他人に危害を及ぼすべき虞のある行為をすることを禁止していることは認め、その余は争う。
(3) 同(3)及び(4)は争う。
(三)(1) 同項(三)(1)の点は認める。
(2) 同(2)の事実のうち、専売公社が日本専売公社法に基づいて、同法第一条により国の専売事業の健全にして能率的な実施をすることを目的として設立された公法上の法人であることは認め、その余は争う。
(3) 同(3)及び(4)は争う。
(四)(1) 同項(四)(1)のうち、(イ)の点は認め、(ロ)の点は争う。
(2) 同(2)のうち、(イ)の点は認め、その余は争う。
(3) 同(3)は争う。
5 第7項の事実は知らない。
六 被告国鉄の主張
1 禁煙車輛設置の請求について
(一) 仮に、たばこの煙による被害について人格権に基づく差止め等が可能であると解する余地があるとしても、差止め等の対象となるのは、被害の発生源となる加害者たる喫煙者の行為であり、運送契約に基づいて乗客に対して車輛を提供しているに過ぎない被告国鉄には、差止め等の対象となるような行為は存在しない。
(二) 原告らと被告国鉄との間の運送契約に基づいて、被告国鉄に禁煙車輛を設置する義務があるとの原告和田の主張は、たばこの煙による被害なるものを不当に過大評価したものであり、運送契約によつて被告国鉄がかかる債務を負担する理由はない。
(三) 原告らは、被告国鉄に対し、将来において被告国鉄の全線区を利用する蓋然性が皆無ではないとして、被告国鉄の全列車の客車の半数を禁煙車輛とすることを求めるが、差止め請求は、具体的な被害または危険の存在を前提としてはじめて認められる性質のものであり、この点においても原告らの請求は理由がない。
2 債務不履行による損害賠償請求について
(一) 原告らは、被告国鉄が、運送契約に基づいて禁煙車輛を設置する等の非喫煙者対策を講じるべき債務があつたと主張するが、被告国鉄と旅客らとの間に締結される運送契約は、当該契約が成立した時点において被告国鉄が提示した契約条件を内容とするものであり、旅客の喫煙に関しては、当該時点における禁煙車輛の連結の有無を内容とするものに過ぎず、被告国鉄が、喫煙についての現在の社会慣行を前提として、旅客の喫煙を部分的に規制しているに過ぎないことは公知の事実であるから、被告国鉄が原告らに対し、運送契約に基づいて禁煙車輛を設置すべき債務を負う理由はない。
(二) 原告らは、被告国鉄との間の運送契約についての安全配慮義務を主張するが、安全配慮義務は抽象的な概念であるから、安全配慮義務の違背を主張するに当たつては、その義務の内容を具体的に特定する必要があるが、原告らの主張は、要するに、被告国鉄が列車に禁煙車輛を設置してたばこの害から乗客を保護すべき義務があつたというものにすぎず、具体的に特定されていない。
3 国家賠償及び不法行為による損害賠償請求について
(一) 原告らは、憲法第一三条及び第二五条を根拠として人格権を主張するが、憲法第一三条は包括的な人権宣言というべき規定であり、同第二五条は国政の運営についての綱領規定であつて、そのいずれもが、私人の具体的な権利の根拠とはなりえないものである。
(二) 国家賠償責任または不法行為責任の成否を論ずるに当たつては、利益衡量を行い、受忍限度を超えた違法性があるかを検討する必要がある。
特に、本件において主張されているように、被害とされる健康障害が疾病の程度に至らない場合ないしは、精神的な苦痛にとどまる場合においては、このような検討を行う必要性が高い(なお、原告らは、健康の概念について世界保健憲章を援用し、健康とは、単に疾病や虚弱ではないということではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることをいい、到達しうる限り最高度の健康水準を享受することであると主張するが、右の健康概念は、行政上の到達目標であり、民事責任に関する限りでの健康は、疾病ではないことである。)。
そして、被告の主張する被害については、列車内における受動喫煙の人体への影響は明らかではなく、原告らが被害として主張するところの実態は、原告らの個人的な事情による一過性のものであり、健康被害というに足りないものである。すなわち、原告らの主張する被害の内容は、主観的な訴えが主体であり、たばこの煙に対して神経質な原告らの主観的事情が大きく作用しており、通常人であれば当然受忍しうる程度のものであるから、被害としての客観性を欠くものである。
他方、喫煙は、社会的に是認された個人の嗜好であり、法律によつてこれを規制する必要は一般的には存在せず、被告国鉄としては、営業政策の一環として、各種の禁煙に関する措置を実施するとともに、列車内の換気にも意を用いている。
以上の諸事情と喫煙に関する社会通念とに照らせば、原告らが、列車内における受動喫煙によつて、受忍限度を超える被害をうけたものということはできない。
七 被告国及び被告日本たばこの主張
1 原告らは、運輸大臣、大蔵大臣、厚生大臣及び専売公社の不作為を根拠として被告国及び同日本たばこに国家賠償責任及び不法行為責任があると主張するが、国家賠償法第一条第一項は、公務員の職務行為の違法性を国家賠償責任の要件としており、公務員の不作為が違法とされるためには、当該公務員が被害者たる国民に対して具体的な作為義務を負つている場合に限られる。
そして、公務員の作為義務が認められるためには、当該公務員の行政権の行使についての根拠規程が存在するだけでは不十分であり、特に、公務員の不作為が当該行政権が行使されるべき相手方以外の第三者との関係で違法とされるためには、当該行政権限が、単に一般の公益を目的とするものではなく、当該第三者の利益の保護を目的とし、当該公務員が当該第三者のために行政権を行使することが義務付けられていなければならない。
さらに、当該行政権の行使が当該公務員の裁量に委ねられている場合には、当該権限の不行使が裁量権を逸脱した場合にのみ国家賠償法上違法となるのであり、しかも、裁量権の逸脱となるのは、当該公務員が直接の加害者の不法行為に加担したものと評価されるような例外的な場合に限られる。
2 運輸大臣の責任について
(一) 原告らは、運輸大臣には、被告国鉄に対し、監督権を行使して、禁煙車輛の設置等の措置を講じるように命ずべき義務があつた旨主張するが、そもそも、被告国鉄には、禁煙車輛を設置すべき義務はなかつたから、運輸大臣にはかかる命令を発すべき義務はなかつた。
(二) 原告らは、運輸大臣が運輸省設置法第四条第三〇号に基づいて、被告国鉄に対し、右(一)記載の趣旨の命令を発する義務があつたと主張するが、右の規定は、運輸大臣の一般的権限を定めたものにすぎず、原告らに対する具体的な作為義務の根拠となるものではない。
(三) 原告らは、運輸大臣が日本国有鉄道法第五二条及び第五四条に基づいて、被告国鉄に対し、右同旨の命令を発する義務があつたと主張するが、右の各規定は、一般的な公共の福祉を目的とした運輸大臣の一般的な監督及び命令権限を規定したものにすぎず、その権限の行使は運輸大臣の裁量に委ねられているから、原告らに対する具体的な作為義務の根拠となるものではない。
3 大蔵大臣の責任について
原告らは、大蔵大臣が、専売公社による専売事業の健全性を確保するため、日本専売公社法第四四条一項に基づいて、監督権限を行使する義務があつたと主張するが、同法第一条所定の専売公社の目的は、企業経営面における健全性及び能率性を指すものであつて原告らの主張するような内容の公益を目的とするものではなく、しかも、同法第四四条第一項は、公益一般の保護のために大蔵大臣の一般的な監督権限を定めたものであり、大蔵大臣が原告らとの関係で作為義務を負うことの根拠となるものではない。
4 厚生大臣の責任について
(一) 原告らは、厚生大臣が厚生省設置法第四条第一項に基づいて、諸種の喫煙対策を講じるべき義務があつたと主張するが、同項は、厚生大臣の一般的所掌事務及び一般的責務を規定しているにとどまり、しかも、その権限行使は厚生大臣の広範な裁量に委ねられているから、厚生大臣の具体的な作為義務の根拠となるものではなく、当該権限を行使しないことが原告らとの関係において違法となるいわれはない。また、右権限の不行使と原告らの主張する損害との間には因果関係も存在しない。
(二)(1) 原告らは、有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律が天然物質をも規制対象とすることを前提として、厚生大臣には、同法に基づいてたばこについての規制措置を講じるべき義務があつたと主張するが、同法の立法趣旨は、化学物質を使用した家庭用品による健康被害の発生を防止することにあるから、たばこのような天然物質は、同法の規制対象外である。
(2) 原告らは、厚生大臣が、同法第六条第二項に基づいて、たばこについての応急措置を講じるべき義務があつたと主張するが、たばこのような天然物質は同法の規制の対象外であるばかりではなく、仮にたばこが同法による規制の対象であるとしても、同項による措置は、同法第四条第一項、第五条及び第六条第一項による通常の規制措置によつては、対処し得ないような通常予想されない場合に対処するためのものであり、当該権限行使は厚生大臣の広範な裁量に委ねられているものであるところ、喫煙が嗜好として社会的に是認されており、原告らが主張する被害の原因がたばこ自体ではなく喫煙方法によるものであることを考慮すれば、厚生大臣が同項の措置を講じなかつたことが違法となる余地はない。
(3) 原告らは、厚生大臣が、同法第四条第一項に基づいてたばこを規制すべき義務があつたと主張するが、同項は、規制方法について、有害物質の含有量、溶出量、発散量について必要な基準を定めるとしており、これは、家庭用品に含有される有害物質が化学組成を変化させることなく直接に溶出、発散することによつて被害が発生することを防止するための基準を定めるとの趣旨であるから、たばこの煙のように燃焼による化学変化によつて生じるものには適用されない。
(4) 原告らは、厚生大臣には、同法第四条第二項に基づき、たばこの包皮に関してたばこの毒性等についての表示を行うように厚生省令を定める義務があつたと主張するが、同法第四条第二項は、容器及び包皮自体の品質及び構造についての基準を定めることができる旨の規定であつて包皮等に表示を行うことについての規定ではない。
(5) また、同法第四条第一項による規制をするためには、同法第二条二項によつて有害物質を政令で定め、同法第四条第一項によつて厚生省令を定めることが必要であり、同条第二項による規制をするためには、同項によつて厚生省令を定めることが必要であるが、厚生大臣には、原告らとの関係において、右のような政令を制定する義務を負ういわれはなく、また、厚生省令の制定権限は、一般の公益を目的とし、厚生大臣の高度の裁量事項であるから、かかる厚生省令を制定しない不作為が原告らとの関係において違法となる余地はない。
(6) 厚生大臣が、同法に基づく措置を講じなかつたことと原告らの主張する被害との間には因果関係がない。
5 被告国の責任について
たばこの煙が健康に対して及ぼす影響の程度及び態様については未だ十分に解明されていないのであり、喫煙を行政的に規制しなければならないような差し迫つた具体的な危険は存在しないし、原告らが受けたと主張するたばこによる被害は、喫煙者の道義的観点からの自制及びその責任において、容易に回避することが可能なものであつて、かかる自己規制を喫煙者に期待することは不合理ではないから、仮に、国の機関が、喫煙を規制する権限を有していたとしても、その権限を行使しなかつたことは違法ではない。
6 被告日本たばこの責任について
(一) 原告らは、専売公社には、消費者保護基本法第四条第一項に基づいて、たばこの害についての表示をする等の措置を講じるべき義務があつたと主張するが、同法は、国の施策の目標及び姿勢を定めた法律であつて、原告らの主張するような具体的義務の根拠となりうるものではない。
(二) 原告らは、専売公社には、有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律第三条に基づいて、たばこによる被害が生じないようにすべき義務があつたと主張するが、同法は、たばこを規制対象とするものではないから、失当である。
(三) 専売公社が原告らの主張する各措置を講じなかつたことと原告らの主張する被害との間には因果関係が存在しない。
第三 証拠<省略>
理由
第一本案前の抗弁について
被告国鉄は、原告らの被告国鉄に対する禁煙車輛の設置を求める請求は、その義務を実現する方法が特定されていないから不適法である旨主張する。
原告らの求める禁煙車輛の設置は、被告国鉄において、列車の運行に関する管理権に基づき、列車中の特定の車輛における喫煙を禁止し、車内に禁煙車輛である旨の表示を設ける等の方法を通じてこれを乗客に周知せしめることとする車輛の設置の意義であることは、その請求の趣旨及び原因により明らかであり、被告国鉄の運行する列車のうちの一部の列車において、既に右の趣旨の禁煙車輛を設置していることは被告国鉄の自認するところであるから、右の請求につきその方法ないし手段が明らかでないために被告国鉄においてその履行をすることが困難であるということはできず、右の点において原告らの右請求の特定に欠けるところがあるということはできない。
また原告らの右請求は、被告国鉄がその営造物管理権を行使して、その管理に係る列車を禁煙車輛とすることを求めるものであるが、営造物管理権限の主体である被告国鉄以外の第三者が被告国鉄に代替して禁煙車輛を設置することはできないから、右請求についての強制執行は間接強制によるべきものである。そして、各列車の客車のうち半数以上を禁煙車とせよとの請求は、執行裁判所が債務の履行を確保するための金銭の支払を命ずるに当たつて、当該作為義務が履行されているかどうかを判断するにつき何等の支障がない程度に特定されているから、原告らの右請求は右の点においてもその特定に欠けるところはないというべきである。
以上のとおり、いずれの点からしても被告国鉄の本案前の抗弁は理由がない。
第二被告国鉄に対する禁煙車輛設置の請求について
一争いのない事実
請求原因第1項(二)ないし(四)の事実は当事者間に争いがない。
二人格権の侵害に対する差止め等の請求
一般に、人の生命及び身体についての利益は、人格権としての保護を受け、これが違法に侵害された場合には、被害者は、損害賠償を求めることができるほか、侵害行為の態様及び程度によつては、人格権に基づいて、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は、将来の侵害行為を予防するため侵害行為の差止めをし、若しくは、侵害行為を予防するために必要な措置を講じることを求めることができるものというべきである(最高裁判所昭和五六年(オ)第六〇九号、昭和六一年六月一一日判決参照)。
原告ら主張のように、たばこの煙に曝されると健康を害し、何等かの病気にかかる危険が増加するとすれば、それは右の意義における人格権に対する侵害にほかならないものである。
そして、人格権に対する侵害があることを根拠としてその侵害行為の差止め、又はその予防のために必要な措置をとることを請求するについては、その必要性と相手方に与える影響とを考慮すると、その請求者がその侵害を受けることもあり得るという抽象的な可能性があるだけでは足りず、現実にその侵害を受ける危険がある場合であることを要すると解すべきである。
三原告らが列車内のたばこの煙に曝される可能性
そこで、原告らにつき、列車内のたばこの煙に曝される現実の危険があるかどうかについて検討する。
原告らは、被告国鉄に対し、被告国鉄が日本国内において運行する全列車につきその二分の一の車輛を禁煙車とすることを求めるところ、原告和田を除くその余の原告らは、被告国鉄との間に定期券の購入等による継続的運送契約関係がなく(これがあることにつき主張も立証もない。)、原告和田は、北陸本線の富山駅と小杉駅との間につき定期乗車券を購入して継続的契約関係にある(この事実は、原告和田本人尋問の結果により認めることができる。)ほかは、他の原告らと同様の地位にあるものである。そうすると、原告らは、原告和田の右特定の区間に関する点を除いては(以下四項の末尾までにおける説示は、右の点に関する原告和田の地位を除く原告らの地位に限るものとする。)被告国鉄の運行する列車の全部又は一部を継続的に利用する地位にはなく、将来各人に必要が生じた都度これに応じた特定の線区における特定の列車を利用する可能性があるにすぎないものである。ところで、被告国鉄は、国内の各地に鉄道網を設けて列車を運行し、これを広く一般の利用に供しているのであるから、国内に居住する者は、その利用の頻度において個人差はあるにしても、いずれも被告国鉄の列車を利用する可能性を有するものである。そして、原告らの被告国鉄に対する地位は、右の居住者一般のそれと何等異るものではないということができる。
そうすると、原告らは、被告国鉄に対して契約上の根拠に基づいて禁煙車の設置を求めることができる地位にはなく、単に全国における被告国鉄の運行する列車のいずれかを利用する可能性があり、これを利用する場合においては、たばこの煙により被害を受ける可能性があり得るというにすぎないものである。
ところで、国内における居住者が被告国鉄の運行する列車を利用するかどうかは、自動車、航空機等の他の交通手段の発達の著しい近時の情況の下においては、かなりの程度において個人の選択の範囲に属する問題であり、およそ国内において旅行その他の人の移動に関して被告国鉄の運行する列車を利用することが常に避けられないというものではない。また、列車を利用する場合においても、その時間帯、利用する列車の種類別、長時間連続して利用するかどうか等についての選択のいかんにより、列車内のたばこの煙により影響を受けるかどうか及び受けるとしてもその程度につきかなりの差を生ずることを否定することができない。
のみならず、被告国鉄による禁煙車輛の設置及び乗客の禁煙車輛の利用の実情につき、<証拠>によれば次の事実が認められる。
(一) 被告国鉄は、昭和五一年八月二〇日に東海道山陽新幹線の特急こだま号の各列車に各一両の自由席の禁煙車輛を設置したのを皮切りとして、漸次、禁煙車輛を連結した特急及び急行の列車を増やし、昭和六〇年四月一日の時点においては、被告国鉄が運行している昼行の特急列車の全部に禁煙車輛が設置され、在来線の急行列車についても、主要なものについては禁煙車輛が設置されるに至つた。
(二) 被告国鉄は、在来線の普通列車についても、禁煙車輛を設置するかあるいは通勤時間帯等の一定の時間帯を区切つて全車を禁煙とする「禁煙タイム」を実施しており、普通列車に禁煙車輛が設置されるかあるいは禁煙タイムが実施されている線区は、昭和五〇年末には二五線区であつたものが昭和六〇年四月一日の時点では一六二線区に及んでおり、主要な駅においても、通勤時間帯等の一定の時間帯を区切つて構内を禁煙とする「禁煙タイム」を実施している。
(三) 被告国鉄は、昭和六〇年四月一日以降新幹線及び在来線の特急列車の指定席にも禁煙車輛又は禁煙席を設置しているが、禁煙車輛又は禁煙席の座席指定券の販売状況によると、禁煙車輛及び禁煙席の利用率が、他の座席に比較して、必ずしも高くはなく、その結果として、これらの列車については、非喫煙者は、一般の車輛と同等以上の購入し易い条件により禁煙席の指定券を入手することができる状況にある。
(四) 被告国鉄は、禁煙車輛の設置その他の喫煙の規制措置をするに当たつては、乗客を対象とするアンケート調査や私鉄の状況等を参考としているが、アンケート調査の結果においては、非喫煙者においても、一部の車輛のみを禁煙車輛とすれば足りるとする回答が多数を占め、私鉄においては喫煙規制を実施している例は少ない。
以上のとおり認められる。
以上によつて明らかなように、今や被告国鉄の運行する列車の利用自体が遠距離であると近距離であるとを問わず人の移動の手段として唯一のものでも、また必ずしも最有力のものでもないのみならず、列車を利用するについても、幹線における急行列車以上の優等列車については、ほぼすべての列車について禁煙席の利用が可能であり、その他の列車の利用についても、禁煙席の利用又は禁煙時間帯の選択等により、たばこの煙に煩らわされることなく移動をすることのできる余地が著しく増大したということができる。このような状況のもとにおいては、原告らが、旅行等の移動をするに当たり、その手段につき適切な選択をするならば、たばこの煙による被害を受ける機会を回避することは、さほど困難ではなくなつたというべきである。
そうであるとするならば、ローカル線の列車等を利用する機会において、原告らがたばこの煙に曝される可能性が全くないということはできないにしても、いつどこの線区の列車を利用するかについて単に抽象的な可能性を有するにすぎない原告らにおいては、列車内のたばこの煙に曝される現実の危険は、極めて低いものといわざるを得ない。
原告らが被告国鉄に対してこのような地位にあるにすぎないとすれば、原告らの禁煙車輛の設置を求める請求は、既にこの点において根拠に乏しいものである。しかしながら、右の点から直ちに、予想されるたばこの煙による被害がどの程度のものであるかについて考慮するまでもなく、原告らの右請求が理由がないものであるとは、にわかに断定し難いものがある。けだし、その被害が人の身体ないし健康にかかわるものであることに鑑み、たばこの煙の影響が列車内のたばこの煙に曝される僅かの経験によつても、これにより容易に回復しない著しい健康上の障害を蒙る程顕著なものであるときは、原告らがこれに曝される可能性が全くないとはいえない以上原告ら主張の作為の請求を肯認すべきものと考える余地があり得るからである。
四被告国鉄の不作為の違法性
1 列車内におけるたばこの煙が身体に及ぼす影響
(一) そこで、列車内において乗客がたばこの煙に曝されることにより、その身体ないしは健康にどのような影響が及ぶかについて検討する。
<証拠>によれば、次の各事実が認められる。
(1) たばこの煙は、喫煙に際して、たばこ自体を通じて口腔に移行する主流煙と、たばこの燃焼部位から空中に立ち昇る副流煙から成っている。そして、喫煙者は、主流煙を吸入するとともに、呼吸に伴つて副流煙をも吸入するのに対し、喫煙者の周囲に居る者は、もつぱら呼吸に伴つて喫煙者の呼気に含まれて排出される主流煙と副流煙を吸入することとなる。
(2) 長時間の能動喫煙の人体への影響としては、肺癌その他の内臓部の癌、動脈硬化に起因する心筋梗塞及び狭心症等の虚血性心疾患並びに呼吸困難を主訴とする肺気腫、慢性気管支炎及び慢性喘息等の閉塞性肺疾患等に罹患する確率が著しく上昇すること、妊婦が能動喫煙をすると、胎児の発育に悪影響があり、流産、早産、未熟児の出産、生後一週間以内における嬰児の死亡等の起こる確率が上昇することが専門家において承認されている。
(3) たばこの煙には、一酸化炭素、アンモニア等の刺激物質、タール分等の粒子相、ニコチン等が含まれており、喫煙者の周囲にいる非喫煙者は、喫煙者との位置関係その他の条件により、濃厚な、あるいは、希釈された煙を吸入することになる。そして、このようにして非喫煙者が、たばこの煙に曝露されると、右の物質及びたばこの臭気の影響により、当該非喫煙者は、そのたばこの煙に対する耐性に応じ、眼及び鼻の刺激、頭痛、咳、喉の痛み、しやがれ声、悪心、めまい等の症状を呈することがある。
(4) 受動喫煙の身体に対する影響については、生理的又は疫学的観点に立つた専門家による研究の結果が少なからず公表されている。その主なものとして、次のものが挙げられる。
(イ) 国立癌センター疫学部長の平山雄博士は、その研究結果として、夫婦の一方が喫煙者である家庭においては、他方がたばこの煙に曝露されるため、双方ともに非喫煙者である家庭の場合に比較して非喫煙者である配偶者が肺癌に罹患する確率が高い旨を公表しており、ギリシャのトリコプウロス氏、アメリカのコーリヤー氏の各研究結果中にも同旨のものがある反面、これらの研究結果に対する学界の批判も強く、イギリスの保健社会保障省の諮問機関である喫煙と健康に関する独立委員会、イギリス王立内科医学会、西独のレーネルト博士及びシーベルバイン博士、イギリスのグルンドマン博士らから、副流煙に曝露されることと肺癌の発生との間の因果関係を否定し、あるいは、平山博士の研究方法に疑問を呈する見解が示されている。
(ロ) 埼玉医大が公表した研究結果によれば、ハツカネズミを毎日三〇ないし四五分間程度たばこの煙の立ちこめる部屋に入れる実験を行つたところ、一年ないし一年半後には肺腫瘍及び前癌変化が生じた例があるとされている。
(ハ) アメリカのアロナウ博士の研究結果には、心筋梗塞及び狭心症等の虚血性心疾患の患者がたばこの副流煙に曝露され、その中に含まれる一酸化炭素を吸入すると発作を惹起する危険性が高いとするものがあるが、同博士の右研究結果に対してはアメリカ環境保護庁から、右研究の基礎とされた資料にねつ造の疑いが強いとの疑義が呈されている。
(ニ) イギリスの保健社会保障省の諮問機関である喫煙と健康に関する独立委員会及びイギリス王立内科医学会は、副流煙に曝露され、これを受動的に吸入することと健康上の被害との間には因果関係が認められない旨を明らかにしている。
(5) 列車内における各車輛の内部は、閉鎖的な空間であって、車内における換気は、天井に取り付けられた換気孔と窓の解放による自然の換気によるほか、窓の解放が不自由な車輛においては、強制換気装置による空気の入れ換えが行われる。しかし、天候その他の条件のいかんによつては、換気が制約されることがあり、また、換気装置を作動させても、常に車内の空気が清浄に保たれるわけではなく、喫煙者があると車内の空気は汚染され、その状態が継続することが少なくない。このため、喫煙が許される車内においては、空気中の粉塵が増加し(その程度は、建築物における衛生的環境の確保に関する法律に基づく政令の基準を超えることがある。)、一酸化炭素の割合も上昇する。そして、車内の非喫煙者は、乗車を続けるかぎり、この状態から逃れることができず、この状態における受動喫煙により、人によつては、前述した眼及び鼻の刺激、喉の痛み等の被害を受けることがある。
以上のとおり認められる。
(二) 以上の事実及び一般に認識されている喫煙についての社会的な実情からすれば、喫煙者の周囲にいる者は、喫煙者のたばこの煙の影響により、眼及び鼻の刺激、頭痛、咳、喉の痛み、しやがれ声、悪心、めまい等の一過性の害並びに不快感を受けることがあり、列車内の受動喫煙によつても同様の害又は不快感を受けることがあるが、更に右の程度を超える具体的な健康上の被害がこれによつて生じるかどうかは必ずしも明らかではない。
すなわち、主流煙といい、副流煙といつても、たばこの燃焼による煙であることに変りはないから、その成分に決定的な違いはなく、ただ副流煙が発生する状態は、主流煙が発生する状態と比較して不完全燃焼の程度が著しいために、発生する煙のうちに有害物が含まれる割合が大きく、この点において両者に差異があるにすぎないものである。そして、喫煙による害が主流煙に含まれる有害物質の身体に及ぼす影響によるものである以上、喫煙者から吐き出された主流煙と副流煙の混じつた空気を呼吸する受動喫煙においても、その態様や程度によつては、喫煙者が受ける害と同様の害を非喫煙者が受けるおそれがないわけではないと考えられる。右に認定した疫学的な調査の結果及び前示証人浅野牧茂の証言は、いずれもこのことを裏付けるものということができる。
しかしながら、喫煙者は、反復継続して直接主流煙を吸い込むのであり、喫煙の頻度や吸い方に差はあるにしても、喫煙者がたばこの煙に曝露される状況に決定的な個人差はないということができるから、喫煙の害についての調査の結果は、おおむね喫煙者一般に妥当するものと考えられる。これに対して、受動喫煙においては、非喫煙者は、空気中に放出され、空気によつて希釈された煙をたまたまそれが漂っている場所に居合わせた機会に吸引するのであるから、その吸引するたばこの煙の濃度は、能動喫煙において吸入される煙の濃度とは決定的に異る(このことは<証拠>により裏付けられるところである。)ばかりでなく、その吸引の継続する時間及びその頻度も一様ではない。したがつて、受動喫煙の身体に対する影響は、どのような状態にどの程度曝されたかについての条件を度外視して一概に論ずることのできない性質のものである。この意味において、喫煙者の配偶者においては、非喫煙者の配偶者よりも肺癌に患つた者の確率が高いとの前述の調査の結果は、一方では受動喫煙の人体に対する影響を裏付けるものと評価することができるが、他方では、どのような態様、程度の受動喫煙をすると人体に影響が及ぶのかについての結論を何も示していないということもできる。したがつて、この程度の調査の結果により、列車内の受動喫煙により直ちに肺癌等の原告らの主張する病気に罹患する危険が増加するとの結論を導くことは到底できない。
結局、列車内における受動喫煙の乗客に対する影響は、当該乗客の乗車の頻度、乗車時間及び列車内におけるたばこの煙の濃度等の条件により左右されると考えられるから、その影響を確認するについては、これらの条件に応じた実験ないしは研究を要するというべきところ、本件に表れた証拠中には、このような意味の研究の結果等に該当するものは存在しない。
2 喫煙に対する社会の受容
<証拠>に公知の事実を参酌すれば、次のようにいうことができる。
我が国においては、喫煙は多年にわたつて個人の嗜好として、国民各層の間に広範に普及しており、愛煙家の数も多く(<証拠>によれば、成年男子については、最近においても二分の一を超える。)、国民の一般の意識においても喫煙を個人の嗜好として是認しており、防災上の見地からの規制を別とすれば、個人が自由に行動することのできる場面においては、喫煙もまた原則として自由に行うことができるものとして、喫煙を寛容に受け容れてきた。しかし、非喫煙者のうちには、たばこの煙のにおいを強く嫌う者があり、ことに室内その他の密閉された空間において喫煙により汚染された空気を吸わされることには多くの非喫煙者が不快を感じるところである。そして、近年においては、各方面において、喫煙の害が強調されるようになつたこと及び喫煙者は、非喫煙者の迷惑について配慮し、自制すべきであるとの声が漸次高まつてきたこと等の影響により、公共の施設、交通機関等及び一般の職場等において、一定の場所における喫煙を禁止する等の喫煙規制の措置が講じられる例がかなり見受けられるようになつた。前認定のように被告国鉄が列車中の禁煙車輛を漸次増加させてきたのは、このような社会の動きに対応する措置であつたということができる。しかし、いついかなる場合に喫煙を差し控えるべきかの判断は、多くの場合において、依然として喫煙者のモラルとその自主的な判断に委ねられており、喫煙についての規制措置が講じられている場合においても、その多くは、施設等の管理者が、営業政策等の観点から独自の判断等によりその裁量によつて方法範囲等を定めている実情にある。
このような社会の実情が是認すべきものであるかどうかは、各人のたばこについての考え方により左右される。たばこは喫煙者の健康に害を及ぼし、非喫煙者にも刺激や不快感を及ぼすばかりでなく、その健康に影響を及ぼすおそれすらないわけではないが、多くの喫煙者がその害を知りながら喫煙の習慣を改めないのは、喫煙には個人の嗜好としてたやすくは捨て難い魅力があり、しかも、禁煙には苦痛が伴うがためであることは、一般によく知られているところである。
他方非喫煙者は、たばこの煙により一方的に被害を受ける立場にあり、たばこの煙が健康に及ぼす影響が懸念されるばかりでなく、受動喫煙を強いられること自体が迷惑であることは明らかであるから、このような非喫煙者の立場を強調すれば、非喫煙者が社会生活上これを受忍しなければならない理由はなく、道義的次元における問題としては、喫煙者において、自らが一方的な加害者であることを自覚し、喫煙の場所、方法について十分な自制をすることが望まれるところである。
しかし、たばこの害についての認識が深くなるにつれて喫煙者が一段と減少することも考えられないではないにしても、喫煙の習慣に対する社会的な対応が今後どのように推移するかは、なお、にわかに予測し難いところである。そして、有害であることを指摘されているにも拘らず、たばこによる憩いを評価し、これを捨てない多数の愛煙家がいるのも現実であつて、このように、害を知りつつ敢て喫煙の習慣を維持するというのも、一つの価値判断に基づく個人の選択であるといわなければならない。原告ら主張の世界保健機構の勧告(その内容は、<証拠>によつて明らかである。)は、喫煙による害から国民を護るための措置を各国政府に勧告するものであり、その目指す方向自体については何人をも首肯させるものがあるというべきであるが、そのことは、喫煙者の喫煙を楽しむ利益が法律的にも社会的にも考慮に値しないことを意味するものではないこともちろんである。
3 受忍限度
原告らは、列車内においてたばこの煙に曝露されることによつて健康上の被害が発生することを前提として、このような重大な侵害行為がある場合には、受忍限度を論ずるまでもなく原告らの作為を求める請求が認容されるべきであると主張する。
しかし、人の生命又は身体に関する利益に対する侵害にも、極めて軽微なものであつて侵害行為が終了した後速やかにその影響が解消するものから、重大な侵害であつて被害者が長くその影響から脱することのできないものまで様々の段階があり得るところであり、侵害の態様も一様ではない。そして、外界には大気の汚染、騒音等自然的にも人為的にも人の身体、健康等に影響を及ぼす作用、刺激等が多数存在するが、その軽度のものについては、たとえ他人の所為に由来するものであつても、社会生活を円滑に営むために相互に許容すべきものとして社会的に容認されるものもあり得るのであつて、およそ生命又は身体に対する侵害があり、又はそのおそれがあるときは、その態様、程度、その侵害に関連する加害者側の利益の性質又はこれに対する差止めによる影響等について考慮をすることなく、当然に損害賠償又は差止めの請求が肯認されるべきであると解することはできない。
そして、前述したとおり、短時間の受動喫煙によつても、眼及び鼻の刺激、頭痛、咳、喉の痛み、しやがれ声、悪心、めまい等の一過性の刺激又は不快感を生ずる可能性があることは否定し難いところであるけれども、一定の作為をしないことにより、非喫煙者をしてたばこの煙に曝される状態に置くことが違法とされるかどうかについては、非喫煙者が受ける影響の程度のみならず、喫煙の風習に対する社会的な寛容の度合並びに喫煙に関する他の諸利益との均衡を総合的に判断し、侵害行為が受忍限度を超えるものであるかどうかを検討しなければならないものである。
既に検討したところによれば、たばこの煙に曝露されることによつて前述のような一過性の刺激又は不快感を生ずることのほかは、特定の疾病に患る可能性が増大する等能動喫煙の影響に類する作用が非喫煙者に及ぶ危険があることを全く否定することはできないにしても、煙の濃度やこれに曝露される頻度等との関連において、どのような受動喫煙がその危険を伴うのかについての的確な判断を可能にするだけの証拠資料は存在しないから、被告国鉄の運行する列車内において、乗客がたばこの煙に曝されることがあつても、その影響により身体ないしは健康について右の一過性の害に止まらない障害を蒙るおそれがあるものと断定することはできない。
のみならず、我国においては、従来喫煙に対しては社会的に寛容であり、喫煙者は、かなり自由に喫煙を享受してきた実態がある。そして、旅客の輸送を業とする被告国鉄としては、非喫煙者のみならず、喫煙者をも含む乗客全体を列車という限られた手段により、可能な限り快適な状態のもとに輸送することが、その業務の維持、発展のために必要であるから、被告国鉄が右のように喫煙が受容されている社会的実態をも考慮に入れた輸送の体制をとることは何等不都合なことではないというべきである。ひとり被告国鉄のみが、このような社会的実態に先がけて、非喫煙者の健康にいささかでも影響のある可能性がある以上直ちにこれを防止するための万全の手段を講ずる義務を法律上負うものと解することは困難である。もとより、非喫煙者が列車内において一過性にもせよ刺激ないし不快感を受ける可能性があることは、列車の運行の体制を設定するにつき無視してよいことではなく、非喫煙者のこのような迷惑を可能なかぎり解消させることが望まれるところであるが、それは、公益事業者である被告国鉄における政策的な目標として是認されるに止まるものである。
要するに、受動喫煙の人体への影響の程度、喫煙に関する社会的受容の実情及び被告国鉄の輸送業者としての立場を総合して考えると、非喫煙者である乗客が被告国鉄の管理する列車に乗車し、たばこの煙に曝露されて刺激又は不快感を受けることがあつても、その害は、受忍限度の範囲を超えるものではないというべきである。
4 人格権に基づく請求についてのまとめ
以上の検討の結果によれば、原告らが将来被告国鉄の運行する列車内においてたばこの煙に曝されることがあるとしても、その被害は、受忍限度を超えるものではなく、僅かの受動喫煙によつても健康上容易に回復することのできない重大な被害を被ることが明らかであるということは到底できないから、前述のとおりたばこの煙による被害を受ける現実の危険が少ない原告らにおいて、その身体ないしは健康上の侵害のおそれがあることを理由として、被告国鉄に対して禁煙車輛の設置を請求することはできないというほかはない。
五原告和田の運送契約に基づく請求について
原告和田は、北陸線の小杉駅から富山駅までの間の定期乗車券を購入したことにより被告国鉄との間に継続的な運送契約を締結したから、被告国鉄が右区間に十分な禁煙車輛を設置しないことは、右の運送契約の債務不履行であると主張する。
しかし、被告国鉄が原告和田との間で、右運送契約において右の禁煙車輛の設置を明示的に約したことを認めるに足りる証拠はない。そして、被告国鉄の右運送契約による債務は、通常の方法により原告和田を右区間内輸送することに尽きるのであり、一般に乗客が列車内においてたばこの煙に曝されることがあつても、それは、受忍限度の範囲内にとどまるものであることは前述のとおりであるから、原告和田が継続的な契約関係にあることは、被告国鉄に対して禁煙車輛の設置を請求することのできる何等の根拠となるものではない。
六以上のとおりであるから、原告らの禁煙車輛の設置を求める請求は、いずれの点からしても理由がない。
第三被告国鉄に対する損害賠償請求について
一原告らが受けた被害
1 <証拠>によれば、原告らが、いずれも、その主張するとおり被告国鉄の管理する列車に乗車したこと、その当時原告らにはいずれも喫煙の習慣がなかつたところ、乗車した右各列車内においては乗客が喫煙していたため、その影響により、眼及び鼻の刺激、頭痛、咳、喉の痛み、しやがれ声、悪心、めまい等の刺激ないし不快感を覚えたことが認められる。しかし、原告らが、原告飯高、同和田、同久保田に関して後述する点を除き、右の刺激ないし不快感に止まらない疾患その他の障害を蒙つたことを認めるべき証拠はない。
2(一) <証拠>によれば、原告飯高が昭和五八年四月一二日新幹線ひかり一一三号及び鹿児島本線の急行かいもんを乗り継いで新大阪から西鹿児島までの間を旅行し、翌一三日に鹿児島鉄道病院において医師の診察を受けたところ、急性扁桃腺炎との診断を受けたことが認められる。しかし、<証拠>によれば、同原告がその当時感冒に罹患していたこと、同原告は、昭和五二年ころまでは一日当り四〇本から一〇〇本程度のたばこを吸い、いわゆるヘビースモーカーであつたことが認められ、これらの事実に受動喫煙の影響に関する前記検討の結果に照らすと、<証拠>中車内の受動喫煙の影響により右扁桃腺炎に患つたとの趣旨の部分はにわかに採用することができない。また、<証拠>によれば、同原告が昭和五六年一一月一九日に山口線及び山陰本線の特急おき六号に小郡から出雲まで乗車し、翌二〇日山陰本線及び伯備線の特急やくも八号に松江から岡山まで乗車したこと、同原告が同月二〇日に医師の診察を受け、咽頭炎との診断を受け、翌二一日に再度医師の診察を受けて急性上気道炎との診断を受けたことが認められる。しかし、前認定の事実によれば、同原告にはたばこの煙に相当の耐性があつたものと推認され、このことと前述したたばこの煙の影響に関する検討の結果に照らすと、<証拠>中炎症の原因に関する部分は採用することができない。
(二) <証拠>によれば、原告和田が昭和五八年一〇月三〇日北陸線、信越線、高崎線の急行能登に小杉から上野までの間乗車したこと、同原告が同年一一月一日医師の診察を受け、急性咽喉頭炎のため二週間の吸入による治療を要するとの診断を受けたことが認められる。しかし、たばこの煙の影響に関する前記検討の結果並びに右の加療を要すべき期間がたばこの影響によるものとしては長すぎること及び当時の同原告の健康状態を知るに足りる証拠がないことに照らし、右疾患の原因に関する<証拠>はにわかに採用することができない。
(三) <証拠>によれば、原告久保田晶子は、昭和五七年八月一三日内房線の急行内房に両国駅から館山駅まで乗車し、同月一六日に医師の診察を受けたところ急性鼻炎及び急性扁桃腺炎との診断を受け、同日から同年九月一七日までの間に五回にわたつて通院し、その治療を受けたことが認められる。しかし、前述したたばこの煙の影響に関する一般的な検討の結果並びに右の治療期間がたばこの影響によるものとしては長すぎること及び当時の同原告の健康状態を知るに足りる十分な証拠がないことに照らすと、<証拠>中車内におけるたばこの煙の影響により右疾患に患つたとの趣旨の部分はにわかに採用することができない。
以上(一)ないし(三)のとおり、原告飯高、同和田、同久保田につき、乗車した列車内においてたばこの煙に曝露されたことと診察を受ける原因となつた健康障害との因果関係についての証拠は、いずれも採用しがたく、他に車内においてたばこの煙に曝露されたことにより、右原告らがその主張の各健康障害を受けたことを認めるに足りる証拠はない。
3 以上のとおり原告らが、その主張する列車に乗車し、車内においてたばこの煙に曝露されたことによつて受けた影響は、眼及び鼻の刺激、頭痛、咳、喉の痛み、しやがれ声、悪心、めまい等の一過性の刺激及び不快感にとどまるものであつたことが明らかである。
4 なお、原告らは、健康とは、世界保健憲章の定めるように、単に疾病や虚弱ではないということではなく、肉体的、精神的、社会的に完全に良好な状態にあることをいい、到達しうる限り最高度の健康水準を享受することを意味し、かかる意味における健康が侵害されれば健康被害があつたというべきであつて、医師の治療を要する程度の疾病のみが健康被害ではないとして、右のような一過性の身体への影響及び不快感であつても健康上の被害であると主張するが、世界保健憲章の右の定義は、政策上の到達目標として掲げられたものであることが明らかであるから、右の定義がされていることから直ちにその意義における健康に対する加害をもつて違法なものと評価することはできない。
二被告国鉄の損害賠償責任
1 債務不履行責任について
(一) 原告らは、被告国鉄が原告らとの間の運送契約上の安全配慮義務に基づいて、禁煙車輛を設置する義務があつたと主張する。
被告国鉄は、乗客を安全に目的地に輸送する義務があるから、運送契約に基づく安全配慮義務として、乗客に影響を及ぼす事故の発生を防止するとともに、乗車中に乗客の健康が損なわれないように配慮すべき注意義務を負つているものということができるが、乗客が車内において喫煙者のたばこの煙に曝露されることにより、一過性の刺激ないし不快感を受けることはあるが、それが明らかに健康上の被害の程度に至るものであるとまでは認め難く、右の程度の害は、現在の社会的意識のもとにおいては、末だ受忍限度の範囲内にあることは前述のとおりである。そうとすれば、被告国鉄がこの程度の被害を防止することについてまでの高度の安全配慮義務を負担するものではないというべきであるから、そのような安全配慮義務の存在を前提とする原告らの損害賠償の請求は理由がない。
なお、原告らは、喫煙が鉄道運輸規程(昭和一七年鉄道省令第三号)第二一条第二号及び第四号において旅客に禁止されている保険衛生上有害な行為及び他人に危害を及ぼすべき虞のある行為に該当すると主張するが、同規程は、鉄道営業法第二条に基づいて制定された委任命令であるところ、同法第三四条が鉄道地内の吸煙禁止の場所及び吸煙禁止の車輛内において喫煙をした者に対して科料を課すべきものとしているところからすると、同法は、禁止の措置がない限り、車内における喫煙を許容していることが明らかであり、これを参酌すれば、同法の委任命令である鉄道営業規程が列車内における喫煙を全面的に禁止する規定を設けたものと解することは困難である。
(二) 原告らは、被告国鉄が原告らとの間の運送契約に基づいて原告らを快適に目的地まで輸送すべき義務に違反したと主張する。
被告国鉄が運送契約に基づいて、乗客を快適に目的地まで輸送すべきことは、旅客輸送基準規程の前文において旅客輸送の目的として掲示されているところであるが、右の定めは、右規程中の位置からすれば、被告国鉄の努力目標を示したものであつて、その快適性の実現は、被告国鉄の経営上の裁量に委ねられているものということができる。そして、たばこの煙の影響が前述の程度である以上、被告国鉄が、乗客をたばこの煙に曝されることなく目的地に輸送する法律上の義務までを負担するものということはできないから、このような義務の存在を前提とする原告らの請求は理由がない。
2 国家賠償責任及び不法行為責任について
原告らは、十分な禁煙車輛が設置されていない列車は、その設置又は管理に瑕疵がある旨、並びに、このような瑕疵のある列車を運行することは非喫煙者に車内でたばこの煙に曝露されることを強いるものであるから違法であり、非喫煙者に対する不法行為である旨主張するが、列車内におけるたばこの煙の影響による一過性の刺激ないし不快感が、受忍限度の範囲内にあることは前述したとおりであり、このことを前提とすれば、被告国鉄に、列車に禁煙車輛を設置する等の非喫煙者対策を講じるべき注意義務があるとはいえないから、禁煙車輛のない列車につき営造物としての設置又は管理に瑕疵があるものということはできず、このような列車を運行することが不法行為を構成するものでもないから、原告らの被告国鉄に対する国家賠償及び不法行為に基づく損害賠償の請求はいずれも理由がない。
第四被告日本たばこに対する損害賠償請求について
1 被告日本たばこが、専売公社の債務を承継したことは原告らと同被告との間で争いがない。
2 国家賠償責任及び不法行為責任
(一) 原告らは、専売公社には消費者保護基本法第四条第一項に基づき、たばこの害についてたばこに適正な表示をする義務があつたと主張する。
しかし、同条は、事業者がその供給する商品又は役務につき、適正な表示等を行うべき責務があることを抽象的に規定することにより、国の消費者保護行政を推進するに当たつての事業者の立場を明らかにしたものであつて、事業者の消費者に対する具体的な作為義務を定めたものということはできない。
(二) 原告らは、専売公社には有害物質を含有する家庭用品の規制に関する法律第三条に基づいて、たばこによる健康被害が生じないようにするための措置を講じるべき義務があつたと主張する。
しかし、同法第三条は、家庭用品の製造又は輸入を行なう事業者の、有害物質から国民を護るための行政上の責務を定めたものであり、家庭用品の消費者に対する事業者等の具体的な義務を定めたものということはできない。
(三) 原告らは、専売公社が積極的な広告宣伝活動を実施してたばこの消費量を増加させ、公衆衛生を害し、日本専売公社法第一条が専売公社の目的として定める専売事業の健全性を害したと主張する。
しかし、たばこの販売を促進することは、たばこ専売事業の目的に反するものではないから、これにより専売事業の健全性が害されるものということはできない。
(四) そして、受動喫煙の被害の程度からすれば、専売公社の右不作為に違法性はないから、被告日本たばこに対する国家賠償及び不法行為による損害賠償の請求は、いずれも理由がない。
第五被告国に対する損害賠償の請求について
原告らは、運輸大臣には、被告国鉄に対し、運輸省設置法第四条第三〇号及び日本国有鉄道法第五二条及び第五四条に基づいて、被告国鉄に対する監督権限を行使して、禁煙車輛の設置等の措置を講じるように訓令すべき義務が、大蔵大臣には、専売公社に対し、日本専売公社法第四四条一項に基づいて、専売事業の健全性を確保するため、監督権限を行使する義務が、厚生大臣には、厚生省設置法第四条第一項に基づいて、諸種の喫煙対策を講じ、かつ家庭用品の規制に関する法律第六条第二項に基づいて、たばこについての応急措置を講じるべき義務がそれぞれあつたと主張するが、前述のように、喫煙が嗜好として社会的に是認されており、非喫煙者が列車内におけるたばこの煙に曝露されることによつてその身体ないしは健康に生じる影響が一過性の刺激ないし不快感にとどまることからすると、これらの規定に基づいて、当該大臣が非喫煙者の保護のために特段の措置を講ずべき法律上の義務を負つたものということはできない。
そうすると、これらの義務の存在を前提とする原告の国に対する国家賠償の請求は理由がない。
第六結論
以上によれば、原告らの各請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官橘 勝治 裁判官大淵武男 裁判官櫻井達朗は転補のため署名捺印することができない。裁判長裁判官橘 勝治)